・・・ 室へ帰る時、二階へ通う梯子段の下の土間を通ったら、鳥屋の中で鷄がカサコソとまだ寝付かれぬらしく、ククーと淋しげに鳴いていた。床の中へもぐり込んで聞くと、松の梢か垣根の竹か、長く鋭い叫び声を立てる。このような夜に沖で死んだ人々の魂が風に・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・ スウスウと缺けた歯の間から鼻唄を洩らしながら、土間から天秤棒をとると、肥料小屋へあるいて行った。「ウム、忰もつかみ肥料つくり上手になったぞい」 善ニョムさんは感心して、肥料小屋に整然と長方形に盛りあげられた肥料を見た。馬糞と、・・・ 徳永直 「麦の芽」
・・・人達の下駄の歯についた雪の塊が半ば解けて、土間の上は早くも泥濘になって居た。御飯焚のお悦、新しく来た仲働、小間使、私の乳母、一同は、殿様が時ならぬ勝手口にお出での事とて戦々恟々として、寒さに顫えながら、台所の板の間に造り付けたように坐って居・・・ 永井荷風 「狐」
・・・狭い店先には瞽女の膝元近くまで聞手が詰って居る。土間にも立って居る。そうして表の障子を外した閾を越えて往来まで一杯に成って居る。太十も其儘立って覗いて居た。斜に射すランプの光で唄って居る二女の顔が冴えて見える。一段畢ると家の内はがやがやと騒・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・第四夜 広い土間の真中に涼み台のようなものを据えて、その周囲に小さい床几が並べてある。台は黒光りに光っている。片隅には四角な膳を前に置いて爺さんが一人で酒を飲んでいる。肴は煮しめらしい。 爺さんは酒の加減でなかなか赤くな・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・と、小万が呼び立てた時は、平田も西宮ももう土間に下りていた。吉里は足が縮んだようで、上り框までは行かれなかッた。「吉里さん、ちょいと、ちょいと」と、西宮も声をかけた。 吉里は一語も吐さないで、真蒼な顔をしてじッと平田を見つめている。・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・そして足音もなく土間へおりて戸をあけた。外ではすぐしずまった。女はいろいろ細い声で訴えるようにしていた。男は酔っていないような声でみじかく何か訊きかえしたりしていた。それから二人はしばらく押問答をしていたが間もなく一人ともつかず二人ともつか・・・ 宮沢賢治 「泉ある家」
・・・大通りから一寸入った左側で、硝子が四枚入口に立っている仕舞屋であった。土間からいきなり四畳、唐紙で区切られた六畳が、陽子の借りようという座敷であった。「まだ新しいな」「へえ、昨年新築致しましたんで、一夏お貸ししただけでございます。手・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・東京近在の百姓家の常で、向って右に台所や土間が取ってあって左の可なり広い処を畳敷にしてあるのが、只一目に見渡される。 縁側なしに造った家の敷居、鴨居から柱、天井、壁、畳まで、bitume の勝った画のように、濃淡種々の茶褐色に染まってい・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・――こんなふうに腹のなかでつぶやきながら私はヤケに土間を靴で踏みつけた。 やがて私は未練らしく頭の上の時刻表を見上げた。そうして「おや」と思った。そこには次の汽車との間に今までなかったはずの汽車の時間が掲げてあるのである。私はいくらか救・・・ 和辻哲郎 「停車場で感じたこと」
出典:青空文庫