・・・そして電車はいくら待ってもどちらからも来なかった。圧しつけるような暗い建築の陰影、裸の並樹、疎らな街燈の透視図。――その遠くの交叉路には時どき過ぎる水族館のような電車。風景はにわかに統制を失った。そのなかで彼は激しい滅形を感じた。 穉い・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・ 私は不思議な情熱が私の胸を圧して来るのを感じながら、凝っとその路に見入っていた。父の妻、私の娘、美しい母、紫色の着物をきた人。苦しい種々の表象が私の心のなかを紛乱して通った。突然、私は母に向かって言った。「あの路へ歩いてゆきましょ・・・ 梶井基次郎 「闇の書」
・・・と近藤は例の圧しつけるような言振で問うた。「一口には言えない」「まさか狼の丸焼で一杯飲みたいという洒落でもなかろう?」「まずそんなことです。……実は僕、或少女に懸想したことがあります」と岡本は真面目で語り出した。「愉快々々、・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・』 この時クスリと一声、笑いを圧し殺すような気勢がしたが、主人はそれには気が付かない。『命せえあればまたどんな事でもできらア。銭がねえならかせぐのよ、情人が不実なら別な情人を目つけるのよ。命がなくなりゃア種なしだ。』 娘が来て、・・・ 国木田独歩 「郊外」
・・・そして実はその倫理的な問いたるや、すでに青年の胸を悩まし、圧しつけ、迷わしめているところの、活ける人生の実践的疑団でなくてはならないのだ。 かくてこそ倫理学の書をひもどくや、自分の悩んでいる諸問題がそこに取り扱われ、解決を見出さんとして・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・コキン、コガ、スマシ、圧し棒、枕……こんな風に変な名前がいくらでもあった。枕といっても、勿論、寝る時に使うそれではなかった。 五六人も揃って同じ仕事をする場合には仕事に慣れた古江は若い者を、鞭で追いまわすようにひどいめに合わした。古江は・・・ 黒島伝治 「まかないの棒」
・・・しかし神代のは、悪いこと兇なることを圧し禁むるのであった。奈良朝になると、髪の毛を穢い佐保川の髑髏に入れて、「まじもの」せる不逞の者などあった。これは咒詛調伏で、厭魅である、悪い意味のものだ。当時既にそういう方術があったらしく、そういうこと・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
・・・おれみたいに生活に圧し潰されていない。まだまだ生活する力を残している。死ぬひとではない。死ぬことを企てたというだけで、このひとの世間への申しわけが立つ筈だ。それだけで、いい。この人は、ゆるされるだろう。それでいい。おれだけ、ひとり死のう。・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・浅虫温泉の近くで夜が明け、雪がちらちら降っていて、浅虫の濃灰色の海は重く蜒り、浪がガラスの破片のように三角の形で固く飛び散り、墨汁を流した程に真黒い雲が海を圧しつぶすように低く垂れこめて、嗟、もう二度と来るところで無い! とその時、覚悟を極・・・ 太宰治 「善蔵を思う」
・・・倦怠、疲労、絶望に近い感情が鉛のごとく重苦しく全身を圧した。思い出が皆片々で、電光のように早いかと思うと牛の喘歩のように遅い。間断なしに胸が騒ぐ。 重い、けだるい脚が一種の圧迫を受けて疼痛を感じてきたのは、かれみずからにもよくわかった。・・・ 田山花袋 「一兵卒」
出典:青空文庫