・・・夫人、人形使と並び坐す。稚児二人あたかも鬼に役せらるるもののごとく、かわるがわる酌をす。静寂、雲くらし。鶯はせわしく鳴く。笙篳篥幽に聞ゆ。――南無大師遍照金剛――次第に声近づき、やがて村の老若男女十四五人、くりかえし唱えつつ来る。・・・ 泉鏡花 「山吹」
・・・ 抽象的、数学的に考うれば複義性なる函数は無数に存在す。例えばファン・デル・ワール等の理論に従えば、ガス体の圧を与うればその体積には三種の可能価ある事となる。この理論の当否は問わざるも、抽象的にこの事は可能なるべし。今かくのごとき場合に・・・ 寺田寅彦 「自然現象の予報」
・・・又子の方より言えば仮令い三十年二十五年以上に達しても、父母在すときは打明け相談して同意を求むるこそ穏なれ。法律は唯極端の場合に備うるのみ。親子の情は斯く水臭きものに非ず。呉々も心得置く可し。扨又結婚の上は仮令い命を失うとも心を金石の如くに堅・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・自分達の本堂に在す仏を拝んでは、次の瞬間に冷静な美術批評家ぶって見、それを些か誇とする――私の穿ちすぎた感じ方かも知れないが、そこに何とも云えず佗びしいものがある。本気で修業する僧と、外来の者を案内したり何かする事務員とは別々な方が自然だ。・・・ 宮本百合子 「宝に食われる」
・・・王が大きい方の椅子に坐すと供人が後に立ち、香炉持ハ左右に。紫っぽい細い煙りは絶えず立ちのぼって王の頭の上に舞う。王 法王はわしに会いに参ったそうじゃのう。小姓 御意の通りでございます、陛下。王 呼んでおくりゃれ。・・・ 宮本百合子 「胚胎(二幕四場)」
・・・祭をする度に、祭るに在すが如くすと云う論語の句が頭に浮ぶ。しかしそれは祖先が存在していられるように思って、お祭をしなくてはならないと云う意味で、自分を顧みて見るに、実際存在していられると思うのではないらしい。いられるように思うのでもないかも・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・そして私の頭には百姓とともに枯れ草を刈るトルストイの面影と、地獄の扉を見おろして坐すべきあの「考える人」の姿とが、相並んで浮かび出た。私は石の上に腰をおろして、左の肱を右の膝に突いて、顎を手の甲にのせて、――そして考えに沈んだ。残った舟はも・・・ 和辻哲郎 「生きること作ること」
出典:青空文庫