・・・ もう夕食時はとうに過ぎ去っていたが、父は例の一徹からそんなことは全く眼中になかった。彼はかくばかり迫り合った空気をなごやかにするためにも、しばらくの休戦は都合のいいことだと思ったので、「もうだいぶ晩くなりましたから夕食にしたらどう・・・ 有島武郎 「親子」
・・・自分が牛舎の流しを出て台所へあがり奥へ通ったうちに梅子とお手伝いは夕食のしたくにせわしく、雪子もお児もうろうろ遊んでいた、民子も秋子もぶらんこに遊んでいた。ただ奈々子の姿が見えなかった。それでも自分はあえて怪しみもせず、今井とともに門を出た・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・午後四時の間食には果物、時には駿河屋の夜の梅だとか、風月堂の栗饅頭だとかの注文をします。夕食は朝が遅いから自然とおくれて午後十一時頃になる。此時はオートミルやうどんのスープ煮に黄卵を混ぜたりします。うどんは一寸位に切って居りました。 食・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・毎晩、私が黙って居ても、夕食のお膳に大きい二合徳利がつけてあって、好意を無にするのもどうかと思い、私は大急ぎで飲むのでありますが、何せ醸造元から直接持って来て居るお酒なので、水など割ってある筈は無し、頗る純粋度が高く、普通のお酒の五合分位に・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・ 夏、家族全部三畳間に集まり、大にぎやか、大混乱の夕食をしたため、父はタオルでやたらに顔の汗を拭き、「めし食って大汗かくもげびた事、と柳多留にあったけれども、どうも、こんなに子供たちがうるさくては、いかにお上品なお父さんといえども、・・・ 太宰治 「桜桃」
一 たましいの、抜けたひとのように、足音も無く玄関から出て行きます。私はお勝手で夕食の後仕末をしながら、すっとその気配を背中に感じ、お皿を取落すほど淋しく、思わず溜息をついて、すこし伸びあがってお勝手・・・ 太宰治 「おさん」
・・・ 粗末な夕食の支度にとりかかりながら、私はしきりに味気なかった。男というものの、のほほん顔が、腹の底から癪にさわった。一体なんだというのだろう。私は、たまには、あの人からお金を貰った。冬の手袋も買ってもらった。もっと恥ずかしい内輪のもの・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・ 銭湯から帰って、早めの夕食をたべた。お酒も出た。「酒だってあるし、」大隅君は、酒を飲みながら、叱るような口調で私に言うのである。「お料理だって、こんなにたくさん出来るじゃないか。君たちはめぐまれ過ぎているんだ。」 大隅君が北京・・・ 太宰治 「佳日」
・・・「たべません。夕食を早めにして下さい。」 私は、どてらに着換え、宿を出て、それからただ歩いた。海岸へ行って見た。何の感慨も無い。山へ登った。金山の一部が見えた。ひどく小規模な感じがした。さらに山路を歩き、時々立ちどまって、日本海を望・・・ 太宰治 「佐渡」
・・・ 彼が夕食をとりに寮の食堂へ、ひとあし踏みこむや、わっという寮生たちの異様な喚声を聞いた。彼等の食卓で「鶴」が話題にされていたにちがいないのである。彼はつつましげに伏目をつかいながら、食堂の隅の椅子に腰をおろした。それから、ひくくせきば・・・ 太宰治 「猿面冠者」
出典:青空文庫