・・・してみればこれは傷の痛さに夢中で此処へ這込だに違いないが、それにしても其時は此処まで這込み得て、今は身動もならぬが不思議、或は射られた時は一ヵ所の負傷であったが、此処へ這込でから復た一発喰ったのかな。 蒼味を帯びた薄明が幾個ともなく汚点・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・ 私は突嗟に起ちあがって、電報を握ったまま暗い石段を駈け下り、石段の下で娘に会ったが同じことを言って、夢中で境内を抜けて一気にこぶくろ坂の上まで走った。そして坂の途中まで下りかけていた彼らの後からオーイオーイF!……と声をかけた。「・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・に限って、女にかあいがられるものサ、女の言いなりほうだいになっていて、それでやはり男だから、チョイと突っ張ってみる、いわゆる張りだね、女はそういうふうな男を勝手にしたり、また勝手にされてみたりすると、夢中になるものだ。だから見たまえ、あの五・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・健二と留吉とは夢中になって、丘の細道を家ごみの方へ馳せ降りて行った。 三人の執達吏のうち、一人は、痩せて歩くのも苦しそうな爺さんだった。他の二人はきれいな髭を生した、疳癪で、威張りたがるような男だった。 彼等が最初に這入った小屋には・・・ 黒島伝治 「豚群」
・・・切られたかと思ったほど痛かったが、それでも夢中になって逃げ出すとネ、ちょうど叔父さんが帰って来たので、それで済んでしまったよ。そうすると後で叔父さんに対って、源三はほんとに可愛い児ですよ、わたしが血の道で口が不味くってお飯が食べられないって・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・「オヤ、この子供は今ンちから豆ッて云うと、夢中になるぜ。いやだなア!」 そんなことを云った。 すると、一緒にめしを食っていた女の人が、プッと笑い出して、それから周章てゝ真赤になってしまった。 俺はそれをひょいと思い出したのだ・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・何時の間に屋外へ飛出して行って、何時の間に帰って来ているかと思われるようなのは、この遊びに夢中な子供だ。「ほんに」とおげんは甥というよりは孫のような三吉の顔を見て言った。「そう言えば三吉は何をして屋外で遊んで来たかや」「木曽川で泳い・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・けれどもいちど、同じ課に勤務している若い官吏に夢中になり、そうして、やはり捨てられたときには、そのときだけは、流石に、しんからげっそりして、間の悪さもあり、肺が悪くなったと嘘をついて、一週間も寝て、それから頸に繃帯を巻いて、やたらに咳をしな・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・意識的に救助を求めると言うよりは、今はほとんど夢中である。自然力に襲われた木の葉のそよぎ、浪の叫び、人間の悲鳴! 「苦しい! 苦しい!」 その声がしんとした室にすさまじく漂い渡る。この室には一月前まで露国の鉄道援護の士官が起臥してい・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・ 妖精の舞踊や、夢中の幻影は自分にはむしろないほうがよいと思われた。 この映画も見る人々でみんなちがった見方をするようである。自分のようなものにはこの劇中でいちばんかわいそうなは干物になった心臓の持ち主すなわちにんじんのおかあさんで・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(3[#「3」はローマ数字、1-13-23])」
出典:青空文庫