・・・それは白い西洋封筒に、タイプライタアで宛名を打った、格別普通の商用書簡と、変る所のない手紙であった。しかしその手紙を手にすると同時に、陳の顔には云いようのない嫌悪の情が浮んで来た。「またか。」 陳は太い眉を顰めながら、忌々しそうに舌・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・これは原君の所へ来た、おばあさんだが、原君が「宛名は」ときくと、平五郎さんだとかなんとか言う。「苗字はなんというんです」と押返して尋ねると、苗字は知らないが平五郎さんで、平五郎さんていえば近所じゅうどこでも知ってるから、苗字なんかなくっても・・・ 芥川竜之介 「水の三日」
・・・ ロシアの医科大学の女学生が、ある晩の事、何の学科やらの、高尚な講義を聞いて、下宿へ帰って見ると、卓の上にこんな手紙があった。宛名も何も書いてない。「あなたの御関係なすっておいでになる男の事を、ある偶然の機会で承知しました。その手続きは・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・ そして、その日の昼過ぎには、小包は宛名の家へ配達されました。「田舎から、小包がきたよ。」と、子供たちは、大きな声を出して喜び、躍り上がりました。「なにがきたのだろうね。きっとおもちだろうよ。」と、母親は、小包の縄を解いて、箱の・・・ 小川未明 「飴チョコの天使」
・・・そのなんとか権所有の、これもそう思えば国定教科書に似つかわしい、手紙の文例の宛名のような、人の名。そんな奥付の有様までが憶い出された。 ――少年の時にはその画のとおりの所がどこかにあるような気がしていた。そうした単純に正直な児がどこかに・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・ ロシヤの医科大学の女学生が、或晩の事、何の学科やらの、高尚な講義を聞いて、下宿へ帰って見ると、卓の上にこんな手紙があった。宛名も何も書いて無い。「あなたの御関係なすってお出でになる男の事を、或る偶然の機会で承知しました。その手続はどう・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・先方の宛名は、小坂吉之助氏というのであった。翌る日、眼光鋭く、気品の高い老紳士が私の陋屋を訪れた。「小坂です。」「これは。」と私は大いに驚き、「僕のほうからお伺いしなければならなかったのに。いや。どうも。これは。さあ。まあ。どうぞ。・・・ 太宰治 「佳日」
・・・「年賀はがきの宛名を一つ一つ書いてゆく間に、自分の過去の歴史がまるで絵巻物のように眼前に展べられる。もっとも懐かしいのは郷里の故旧の名前が呼びだす幼き日の追憶である。そういう懐かしい名前が年々に一つ減り二つ減って行くのがさびしい。」 こ・・・ 寺田寅彦 「年賀状」
・・・従って夏目文学博士殿と宛名を書く方が本文よりも少し手数が掛った訳である。 しかし凡てこれらの手紙は受取る前から予期していなかったと同時に、受取ってもそれほど意外とも感じなかったものばかりである。ただ旧師マードック先生から同じくこの事件に・・・ 夏目漱石 「博士問題とマードック先生と余」
・・・ついに思いきった様子で、宛名は書かず、自分の本名のお里のさ印とのみ筆を加え、結び文にしてまた袂へ入れた。それでまたしばらく考えていた。 廊下の方に耳を澄ましながら、吉里は手箪笥の抽匣を行燈の前へ持ち出し、上の抽匣の底を探ッて、薄い紙包み・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
出典:青空文庫