・・・しかし頭のどこかには、実母のない姉の心もちが不思議なくらい鮮に映っているような気がしながら。―― 慎太郎はふと耳を澄せた。誰かが音のしないように、暗い梯子を上って来る。――と思うと美津が上り口から、そっとこちらへ声をかけた。「旦那様・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ などと頻りに小言を云うけれど、その実母も民子をば非常に可愛がって居るのだから、一向に小言がきかない。私にも少し手習をさして……などと時々民子はだだをいう。そういう時の母の小言もきまっている。「お前は手習よか裁縫です。着物が満足に縫・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・見ていたずらに心を動かすがごとしという遍昭が歌の生れ変り肱を落書きの墨の痕淋漓たる十露盤に突いて湯銭を貸本にかすり春水翁を地下に瞑せしむるのてあいは二言目には女で食うといえど女で食うは禽語楼のいわゆる実母散と清婦湯他は一度女に食われて後のこ・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・姑必ずしも薄情ならず、其安産を祈るは実母と同様なれども、此処が骨肉微妙の天然にして、何分にも実母に非ざれば産婦の心を安んずるに足らず。また老人が長々病気のとき、其看病に実の子女と養子嫁と孰れかと言えば、骨肉の実子に勝る者はなかる可し。即ち親・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・多産又は病身の母なれば乳母を雇うも母体衛生の為めに止むを得ざれども、成る可くば実母の乳を以て養う可し。母体平生の健康大切なる所以なり。小児は牛乳を以て養う可しと言い、財産家は乳母を雇うこと易しとて、母に乳あるも態と之を授けずして恰も我子の生・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・[自注8]島田の母様――顕治の実母、美代。[自注9]スエ子――百合子の妹。[自注10]山田のおばあちゃん――顕治の下宿の女主人。[自注11]達治さん――顕治の長弟。顕治に代って家事経営の中心になっていた。一九四五年八月六日広・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
出典:青空文庫