・・・睫に宿る露の珠に、写ると見れば砕けたる、君の面影の脆くもあるかな。わが命もしかく脆きを、涙あらば濺げ。基督も知る、死ぬるまで清き乙女なり」 書き終りたる文字は怪しげに乱れて定かならず。年寄の手の顫えたるは、老のためとも悲のためとも知れず・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・すべてが借り物になって魂の宿る余地がなくなるばかりです。私は芸術家というほどのものでもないが、まあ文学上の述作をやっているから、やはりこの種類に属する人間と云って差支ないでしょう。しかも何か書いて生活費を取って食っているのです。手短かに云え・・・ 夏目漱石 「道楽と職業」
・・・ウィリアムの心の中に二つのものは宿らぬ。宿る余地あらばこの恋は嘘の恋じゃ。夢の続か中庭の隅で鉄を打つ音、鋼を鍛える響、槌の音、ヤスリの響が聞えて、例の如く夜が明ける。戦は愈せまる。 五日目から四日目に移るは俯せたる手を翻がえす間と思われ・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・ 私は、実の自己と云うものは、一個の肉体に宿る多くの意志、感情、智の中で、生れ出た時既に宇宙の宏大無辺の精力の中から分けられた精力が、その三つの中のいずれかに宿って居る時に、その先天的にある精力を自己と云いたい。 そう云えば、世の人・・・ 宮本百合子 「大いなるもの」
・・・ 太古のエジプト人たちは、人間の生命は息と眼の中に宿るものだと考えた。もしそうでないなら、息がとまったとき死という現象が起り、眼の光が失われてつむったとき人間も死ぬということはない、と彼らは考えた。そして、生命という意味の象形文字は、自・・・ 宮本百合子 「幸福の感覚」
・・・「正直の頭べに神宿る」ということわざは、現代ではこんな形に出てくるのね。しじみやが正直にざるをかついで働いているお蔭で、大金を拾ったというような昔の正直のむくいよりも、どうもこういう方が理屈にかなっていますね。ですからみんな愉快です。私・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・御人でも春のめぐみにかがやいて 黄金のよになるかしの木の この木のような勢と 望をもって御いでなさい夏に青葉と変っても 夏がだんだんふけていて秋のめぐみがこの枝に 宿ると一所にかしの木は 又黄金色にか・・・ 宮本百合子 「つぼみ」
・・・火点しごろ過ぎて上田に着き、上村に宿る。 十八日、上田を発す。汽車の中等室にて英吉利婦人に逢う。「カバン」の中より英文の道中記取出して読み、眼鏡かけて車窓の外の山を望み居たりしが、記中には此山三千尺とあり、見る所はあまりに低しなどいう。・・・ 森鴎外 「みちの記」
・・・「宿るところもおじゃらぬのう」「今宵は野宿するばかりじゃ」「急ごうぞ」「急ぎゃれ」これだけの応答が幾たびも試験を受けた。「馬が走るわ。捕えて騎ろうわ。和主は好みなさらぬか」「それ面白や。騎ろうぞや。すわやこなたへ近づくよ」 二人・・・ 山田美妙 「武蔵野」
出典:青空文庫