・・・自分はある友と市中の寓居を出でて三崎町の停車場から境まで乗り、そこで下りて北へ真直に四五丁ゆくと桜橋という小さな橋がある、それを渡ると一軒の掛茶屋がある、この茶屋の婆さんが自分に向かって、「今時分、何にしに来ただア」と問うたことがあった。・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・と山田君は久しぶりに私の寓居を訪れて、頗る緊張しておっしゃるのである。「大丈夫ですか。大隅君は、あれで、なかなかむずかしいのですよ。」大隅君は大学の美学科を卒業したのである。美人に対しても鑑賞眼がきびしいのである。「写真を、北京へ送・・・ 太宰治 「佳日」
・・・んて、友人を訪問するような事はしない、女だって君よりは孤独に堪える力を持っている、女、三界に家なし、というじゃないか、自分がその家に生れても、いつかはお嫁に行かなければならぬのだから、父母の家も謂わば寓居だ、お嫁に行ったって、家風に合わなけ・・・ 太宰治 「鉄面皮」
・・・これは、夏目先生が英国へ留学を命ぜられたために熊本を引上げて上京し、奥さんのおさとの中根氏の寓居にひと先ず落着かれたときのことであるらしい。先生が上京した事をわざわざ知らしてくれたものと思われる。その頃自分は大学二年生であったが、その少し前・・・ 寺田寅彦 「子規自筆の根岸地図」
九月五日動物園の大蛇を見に行くとて京橋の寓居を出て通り合わせの鉄道馬車に乗り上野へ着いたのが二時頃。今日は曇天で暑さも薄く道も悪くないのでなかなか公園も賑おうている。西郷の銅像の後ろから黒門の前へぬけて動物園の方へ曲ると外・・・ 寺田寅彦 「根岸庵を訪う記」
・・・でも始終顔を合わせてはいたが、一度もその寓居をたずねたことはなかった。それにもかかわらず自分は同氏の住み家やその居室を少なくとも一度は見たことがあるような錯覚を年来もちつづけて来た。そうしてそれがだんだんに固定し現実化してしまって今ではもう・・・ 寺田寅彦 「俳諧瑣談」
三十七年の夏、東圃君が家族を携えて帰郷せられた時、君には光子という女の児があった。愛らしい生々した子であったが、昨年の夏、君が小田原の寓居の中に意外にもこの子を失われたので、余は前年旅順において戦死せる余の弟のことなど思い・・・ 西田幾多郎 「我が子の死」
・・・しかし、鈍魚という字が面白く、また、ドンコの性格をよくあらわしているので、私は東京阿佐ヶ谷の寓居に「鈍魚庵」という名をつけている。正式にはドンギョあんであるが、ドンコあんと読まれてもさしつかえないことにしている。 ドンコはいくら下手でも・・・ 火野葦平 「ゲテ魚好き」
・・・このいちごの事がいつまでも忘れられぬので余は東京の寓居に帰って来て後、庭の垣根に西洋いちごを植えて楽んでいた。○桑の実を食いし事 信州の旅行は蚕時であったので道々の桑畑はいずこも茂っていた。木曾へ這入ると山と川との間の狭い地面が皆桑畑で・・・ 正岡子規 「くだもの」
出典:青空文庫