・・・兄の家では、大阪から見舞いに来ていた、××会社の重役である嫂の弟が、これも昨日山からおりて、今日帰るはずで立つ支度をしていた。「ここもなかなか暑いね」道太は手廻りの小物のはいっているバスケットを辰之助にもってもらい、自分は革の袋を提げて・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・尤も私は、その以前から、台所前の井戸端に、ささやかな養所が出来て毎日学校から帰るとに餌をやる事をば、非常に面白く思って居た処から、其の上にもと、無理な駄々を捏る必要もなかったのである。如何に幸福な平和な冬籠の時節であったろう。気味悪い狐の事・・・ 永井荷風 「狐」
・・・彼も他人のするように手拭かぶって跟いて行った。帰る時にはぽさぽさとして独であった。若い衆はみんな自分の女を見つけると彼を棄ててそこらの藪や林へこそこそと隠れて畢う。太十はどの女にも嫌われた。丁度水に弾かれる油のようであった。それでも彼は昼間・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・余は桜の杖をついて下宿の方へ帰る。帰る時必ずカーライルと演説使いの話しを思いだす。かの溟濛たる瓦斯の霧に混ずる所が往時この村夫子の住んでおったチェルシーなのである。 カーライルはおらぬ。演説者も死んだであろう。しかしチェルシーは以前のご・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・たとえば諸君は、夜おそく家に帰る汽車に乗ってる。始め停車場を出発した時、汽車はレールを真直に、東から西へ向って走っている。だがしばらくする中に、諸君はうたた寝の夢から醒める。そして汽車の進行する方角が、いつのまにか反対になり、西から東へと、・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・「どれ、兎に角、帰ることにしようか、オイ、俺はもう帰るぜ」 私は、いつの間にか女の足下の方へ腰を、下していたことを忌々しく感じながら、立ち上った。「おめえたちゃ、皆、ここに一緒に棲んでいるのかい」 私は半分扉の外に出ながら振・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・本見世と補見世の籠の鳥がおのおの棲に帰るので、一時に上草履の音が轟き始めた。 三 吉里は今しも最後の返辞をして、わッと泣き出した。西宮はさぴたの煙管を拭いながら、戦える吉里の島田髷を見つめて術なそうだ。 燭台の蝋・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・一 婦人は夫の家を我家とする故に唐土には嫁を帰るといふなり。仮令夫の家貧賤成共夫を怨むべからず。天より我に与へ給へる家の貧は我仕合のあしき故なりと思ひ、一度嫁しては其家を出ざるを女の道とする事、古聖人の訓也。若し女の道に背き、去・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・聖人は赤児の如しという言葉が、其に幾らか似た事情で、かねて成り度いと望んでた聖人に弥々成って見れば、やはり子供の心持に還る。これ変ったと云えば大に変り、変らんと云えば大に変らん所じゃないか。だから先きへばかり眼を向けるのが抑の迷い。偶には足・・・ 二葉亭四迷 「私は懐疑派だ」
・・・主人は今晩帰るはずになっています。わたくしはもう夫に怨を申すことは出来ません。それは自分がほとんど同じような不実をいたしたからでございます。 わたくしはこれまでのような、単調な生活を続けてまいりましょう。田舎の女にはそれが当り前なのでご・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
出典:青空文庫