・・・「なんのいけないことがあるもんですか、あなたの心がけですよ。幾日も、幾日も、南をさしてゆけば、しぜんにいかれますよ。」と、かもめはいいました。「たとえ、そこへいっても、どうして食べていけるかわかりません。石を投げつけられたり、みんな・・・ 小川未明 「馬を殺したからす」
・・・夫婦はひそひそ語り合っていたが、案の定、柳吉はある日ぶらりと出て行ったまま、幾日も帰って来なかった。 七日経っても柳吉は帰って来ないので、半泣きの顔で、種吉の家へ行き、梅田新道にいるに違いないから、どんな容子かこっそり見て来てくれと頼ん・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・彼は書きかけの原稿やペンやインキなど入れた木通の籠を持ち、尋常二年生の彼の長男は書籍や学校道具を入れた鞄を肩へかけて、袴を穿いていた。幾日も放ったらかしてあった七つになる長女の髪をいゝ加減に束ねてやって、彼は手をひいて、三人は夜の賑かな人通・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ そこは入り込んだ町で、昼間でも人通りは少なく、魚の腹綿や鼠の死骸は幾日も位置を動かなかった。両側の家々はなにか荒廃していた。自然力の風化して行くあとが見えた。紅殻が古びてい、荒壁の塀は崩れ、人びとはそのなかで古手拭のように無気力な生活・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・おげんはこの養生園へ来てから最早幾日を過したかということもよく覚えなかった。廊下づたいに看護婦の部屋の側を通って、黄昏時の庭の見える硝子の近くへ行って立った。あちこちと廊下を歩き廻っている白い犬がおげんの眼に映った。狆というやつで、体躯つき・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・床にはいって目をつぶっているのでさえ、五分間は長く、胸苦しく感じられるのに、新ちゃんは、朝も昼も夜も、幾日も幾月も、何も見ていないのだ。不平を言ったり、癇癪を起したり、わがまま言ったりして下されば、私もうれしいのだけれど、新ちゃんは、何も言・・・ 太宰治 「女生徒」
・・・番茶を一口すすって、「僕のこの不精髭を見て、幾日くらいたてばそんなに伸びるの? と聞くから、二日くらいでこんなになってしまうのだよ。ほら、じっとして見ていなさい。鬚がそよそよと伸びるのが肉眼でも判るほどだから、と真顔で教えたら、だまってしゃ・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
・・・ただ一番最初の相対原理に取り付いた時だけはさすがにそうはゆかなかったらしい。幾日も喪心者のようになって彷徨したと云っている。一つは年の若かったせいでもあろうが、その時の心持はおそらくただ選ばれたごく少数の学者芸術家あるいは宗教家にして始めて・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・ 八月になってから雨天や曇天がしばらく続いて涼み台も片隅の戸袋に立てかけられたままに幾日も経った。 ある朝新聞を見ていると、今年卒業した理学士K氏が流星の観測中に白鳥星座に新星を発見したという記事が出ていた。その日の夕方になると涼み・・・ 寺田寅彦 「小さな出来事」
・・・せっかく仕掛けてある捕鼠器の口が、いかにはいりたいねずみにでもはいれないような位置に押しやられていたり、ふたの落ちたのをそのままに幾日も台所のすみにほうり出してあるのを発見したりするとはなはだ心細いたよりないような気がするのであった。そこに・・・ 寺田寅彦 「ねずみと猫」
出典:青空文庫