・・・「うん、引き上げるのも悪くはないな。」 それからMは気軽そうにティッペラリイの口笛を吹きはじめた。 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・ち出すのを、巡査が叱りましたが、叱られるとなお吼り立って、たちまち、裁判所、村役場、派出所も村会も一所にして、姦通の告訴をすると、のぼせ上がるので、どこへもやらぬ監禁同様という趣で、ひとまず檀那寺まで引き上げることになりましたが、活き証拠だ・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・「おい、お主等、このまゝおとなしく引き上げるつもりかい! 馬鹿々々しい!」村に妻と子供とを置いてある留吉が云った。「皆な揃うて大将のとこへ押しかけてやろうぜ。こんな不意打を食わせるなんて、どこにあるもんか!」 彼等は、腹癒せに戸棚に・・・ 黒島伝治 「豚群」
・・・ 既に掠奪の経験をなめている百姓は、引き上げる時、金目になるものや、必要な品々を持てるだけ持って逃げていた。百姓は、鶏をも、二本の脚を一ツにくくって、バタバタ羽ばたきするやつを馬の鞍につけて走り去った。だが産んだばかりの卵は持って行く余・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・ 私たち親子のものは、足掛け二年ばかりの宿屋ずまいのあとで、そこを引き揚げることにした。愛宕下から今の住居のあるところまでは、歩いてもそう遠くない。電車の線路に添うて長い榎坂を越せば、やがて植木坂の上に出られる。私たちは宿屋の離れ座敷に・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・はじめの予定では、北さんの意見のとおり、お見舞いしてすぐに金木を引き上げ、その夜は五所川原の叔母の家へ一泊という事になっていたのだが、こんなに母の容態が悪くては、予定どおりすぐ引き上げるのも、かえって気まずい事になるのではあるまいか。とにか・・・ 太宰治 「故郷」
・・・ここに暫くとじこもって一つの仕事が出来あがると私は、そそくさと三鷹を引き上げる。逃げ出すのである。旅に出る。けれども、旅に出たって、私の家はどこにも無い。あちこちうろついて、そうしていつも三鷹の事ばかり考えている。三鷹に帰ると、またすぐ旅の・・・ 太宰治 「誰」
・・・である。あばれ馬のあばれ方は愉快であるが、鹿の走り方は少しおかしい。あれは追わるる鹿ではない。モーリスが馬と「話し合いで別れて」鹿と友だちになっているところは傑作である。「静かにお帰りください」で引き上げる狩人たちのスローモーションは少し薬・・・ 寺田寅彦 「音楽的映画としての「ラヴ・ミ・トゥナイト」」
・・・という一編のクライマックスがあって、さて最後には消防隊が引き上げる光景、クジマの顔には焼けど、額には血、目の縁は黒くなって、そうして平気で揚々と引き上げて行くところで「おしまい」である。 紙芝居にしても悪くはなさそうである。それはとにか・・・ 寺田寅彦 「火事教育」
・・・このような血のめぐりのいい時に、もしほんとうの教育、人の心を高い境地に引き上げるような積極的な教育が施されたら、どんなに有効な事であろう。 元気のいい人たちの中には少数の沈んだ顔もあった。けんかでもしたのかハンケチを顔に押しあてて泣いて・・・ 寺田寅彦 「写生紀行」
出典:青空文庫