・・・しかもその驚いた顔は、声の主を見たと思うと、たちまち当惑の色に変り出した。「やあ、こりゃ檀那でしたか。」――客は中折帽を脱ぎながら、何度も声の主に御時儀をした。声の主は俳人の露柴、河岸の丸清の檀那だった。「しばらくだね。」――露柴は涼し・・・ 芥川竜之介 「魚河岸」
・・・洋一は兄の表情に愉快な当惑を感じながら、口早に切れ切れな言葉を続けた。「今日は一番苦しそうだけれど、――でも兄さんが帰って来て好かった。――まあ早く行くと好いや。」 車夫は慎太郎の合図と一しょに、また勢いよく走り始めた。慎太郎はその・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・六尺近い背丈を少し前こごみにして、営養の悪い土気色の顔が真直に肩の上に乗っていた。当惑した野獣のようで、同時に何所か奸譎い大きな眼が太い眉の下でぎろぎろと光っていた。それが仁右衛門だった。彼れは与十の妻を見ると一寸ほほえましい気分になって、・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・そしてきょろきょろとほかの子供たちを見やってから、当惑し切ったように瓶の積み重なりを顧みた。取って返しはしたものの、どうしていいのかその子供には皆目見当がつかないのだ、と彼は思った。 群がり集まって来た子供たちは遠巻きにその一人の子供を・・・ 有島武郎 「卑怯者」
・・・「なあに、こっちの迷惑より、そういう御様子ではさぞ御当惑をなさるでありましょう、こう遣って、お世話になるのも何かの御縁でしょうから、皆さん遠慮しないが宜しい。」 と二人で差向で話をしておりまする内に、お喜代、お美津でありましょう、二・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・端書だからツイ失くしてしまって今では一枚しか残っていないが、「上田の附文標準語に当惑し」、「先生の原稿だぞと委員云ひ」というようなのがあった。前者は万年博士が標準語に関する大論文を発表した際で、標準語という言葉がその頃の我々の仲間の流行語と・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・かつ当惑しました。しかたがなく、掘って、車に載せて帰りました。 しかし、それは、木を移す時期でなかったので、実もしなびてしまえば、木も枯れてしまいました。 けっきょく、男は、ほねおり損に終わったわけです。・・・ 小川未明 「ある男と無花果」
・・・ 下男は当惑をしました。外を見ると真っ白に雪が積もっていました。どこを見ましても、一面に雪が地を隠していました。その村は、北の寒い国のさびしいところであったからであります。 しかし、いいだしたうえは、なんでもそのことを通す主人の気質・・・ 小川未明 「北の国のはなし」
・・・それには年老った主人夫婦も当惑して「それでは今晩一晩だけだったら都合しましょう」と云うことにきまったが、併し彼の長女は泣きやまない。「ね、いゝでしょう? それでは今晩だけこゝに居りますからね。明日別の処へ行きますからね、いゝでしょう? ・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
いよいよ明日は父の遺骨を携えて帰郷という段になって、私たちは服装のことでちょっと当惑を感じた。父の遺物となった紋付の夏羽織と、何平というのか知らないが藍縞の袴もあることはあるのだが、いずれもひどく時代を喰ったものだった。弟も前年細君の・・・ 葛西善蔵 「父の葬式」
出典:青空文庫