・・・何処も彼処も封じられて了った。一日々々と困って行った。蒲団が無くなり、火鉢が無くなり、机が無くなった。自滅だ――終いには斯う彼も絶望して自分に云った。 電灯屋、新聞屋、そばや、洋食屋、町内のつきあい――いろんなものがやって来る。室の中に・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ ふと山王台の森に烏の群れ集まるのを見て、暫く彼処のベンチに倚って静かに工夫しようと日吉橋を渡った。 哀れ気の毒な先生! 「見すぼらしげな後影」と言いたくなる。酒、酒、何であの時、蕎麦屋にでも飛込んで、景気よく一二本も倒さなかったの・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・ どちらにしてもお徳が言った通り、彼処へ竹の木戸を植木屋に作らしたのは策の得たるものでなかったと思った。 午後三時過ぎて下町行の一行はぞろぞろ帰宅って来た。一同が茶の間に集まってがやがやと今日の見聞を今一度繰返して話合うのであった。・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
・・・ここに奈耶迦天を祀れるは地の名に因みてしたるにやあらんなど思いつづくるにつけて、竹屋の渡しより待乳山あたりのありさま眼に浮び、同じ川のほとりなり、同じ神の祠なれど、此処と彼処とのおもむきの違えば違うものよなど想いくらべて、そぞろに時を移せし・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・そら彼処に古い「出し杭」が列んで、乱杭になっているだろう。その中の一本の杭の横に大きな南京釘が打ってあるのが見えるだろう。あの釘はわたしが打ったのだよ。あすこへ釘を打って、それへ竿をもたせると宜いと考えたので、わたしが家から釘とげんのうとを・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・七「へえ……それは飛んだ事をしました、彼処へ往って置いて来ましょうか」殿「いや其の方の手許に置いて宜かろう、授かり物じゃ」 と早々石川様から御家来をもちまして、書面に認め、此の段町奉行所へ訴えました。正直の首に神宿るとの譬で、七・・・ 著:三遊亭円朝 校訂:鈴木行三 「梅若七兵衞」
・・・ 透谷君がよく引っ越して歩いた事は、已に私は話した事があるから、知っている読者もあるであろうと思うが、一時高輪の東禅寺の境内を借りて住んでいた事があって、彼処で娘のふさ子さんが生れた。彼処に一人食客がいた事は、戸川君も一度書いた事がある・・・ 島崎藤村 「北村透谷の短き一生」
・・・という灯が見えるが、さて共処まで行って、今歩いて来た後方を顧ると、何処も彼処も一様の家造りと、一様の路地なので、自分の歩いた道は、どの路地であったのか、もう見分けがつかなくなる。おやおやと思って、後へ戻って見ると、同じような溝があって、同じ・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・といったりあるいは末節の、「われは此処彼処にさまよう落葉」といったのはやはり詩人の Jenx d'espritであったのだ。しかし自分は無論己れを一世の大詩人に比して弁解しようというのではない。唯晩年には Sagesse の如き懺悔の詩を書・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・現に彼処に教場に先生の机がある。先ず私たちは時間の合間合間に砂糖わりの豌豆豆を買って来て教場の中で食べる。その豌豆豆が残るとその残った豌豆豆を先生の机の抽斗の中に入れて置く。歴史の先生に長沢市蔵という人がいる。われわれがこれを渾名してカッパ・・・ 夏目漱石 「模倣と独立」
出典:青空文庫