・・・千代は、実に従順にしとやかに一々「はい」と答えた。れんの遽しい今にも何かにつき当りそうなせき込んだはい、はいの連発ではない。艶のある眼で、流眄ともつかず注目ともつかない眼ざしをすらりとさほ子の頬の赤い丸顔に投げ、徐ろに「はい」と応えるのであ・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・この事実が、婦人の職業の一つとして看護婦という立場をとった場合にでも、何となし先生に対して依頼心のつよい、命令に従順でさえあれば、看護婦としての範囲とその責任において、臨機に病人を扶けてゆく積極性をかくわけでしょう。 病気で苦しいとき、・・・ 宮本百合子 「生きるための協力者」
・・・ともに従順でないもの、戦争の本質に洞察をもつ者、文学を文学として護ろうとする者を沈黙させ、投獄した。 過去の文学は、いまから六年ほど前「私小説」の崩壊がいわれはじめた時、死に瀕していたのであった。 刻々とすさまじく推移せる世界と国内・・・ 宮本百合子 「歌声よ、おこれ」
・・・ 参詣人の大群は、日和下駄をはき、真新しい白綿ネルの腰巻きをはためかせ、従順にかたまって動いているが、あの夥しい顔、顔が一つも目に入らず、黄色や牡丹色の徽章ばっかりが灰色の上に浮立ち動いているのは、どうしたものだろう。数が多すぎるばかり・・・ 宮本百合子 「上林からの手紙」
・・・権力に従順な人々へのゲーテ賞もわかる。 現代の帝国主義の国家権力の実質が、よりゆたかなヒューマニティーの力の表現といえないのが現実ならば、わたしたち一人一人が「失うものはこの世の不幸しかない」平の人民の女であり男として生れたことを心から・・・ 宮本百合子 「権力の悲劇」
・・・精神のよりどころを与えるというならば、作者自身が、従順な奴隷八千五百万とよばれている人口のうちにこめられていることを自覚して、ファシズムと戦争挑発に反対署名し、全面講和要求に署名したとしても、ジャーナリズムを通して強力にすすめられているエロ・・・ 宮本百合子 「五〇年代の文学とそこにある問題」
・・・私の弟のやさしい従順な家内が、あんなに朝から晩まであれこれ心をくばって暮しているのに、腰紐に小さい鈴が一つくっついていて、朝身じまいをするときだの、夜着物をきかえる時だの、何処かでチリリと鳴ったとしたら、やっぱりそれはわるい心地もしないだろ・・・ 宮本百合子 「小鈴」
・・・ 一九五〇年の私達の課題は日本が全面的な講和によって、次の戦争に利用する事の出来る従順な八千五百万の住民と云うノロワシイ条件を克服しなければなりません。 私達は優しい日本の心、素直な女のものわかりよさと云う、オアイソに乗って、自分達・・・ 宮本百合子 「今年こそは」
・・・そうして見れば、僕は事実上極蒙昧な、極従順な、山の中の百姓と、なんの択ぶ所もない。只頭がぼんやりしていないだけだ。極頑固な、極篤実な、敬神家や道学先生と、なんの択ぶところもない。只頭がごつごつしていないだけだ。ねえ、君、この位安全な、危険で・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・に仕上げ、夫は細君を従順でない「しぶとい女」に仕上げて行く。漱石はこの作を書いた時より十年ほど前、『吾輩は猫である』を書き出す前後の自分の生活をこの作で書いたと言われているが、しかし作者としての漱石は作の主人公やその細君を一歩上から憐れみな・・・ 和辻哲郎 「漱石の人物」
出典:青空文庫