・・・ 婆さんの前には心配そうな恵蓮が、――いや、支那服を着せられた妙子が、じっと椅子に坐っていました。さっき窓から落した手紙は、無事に遠藤さんの手へはいったであろうか? あの時往来にいた人影は、確に遠藤さんだと思ったが、もしや人違いではなか・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・若者は麦湯を飲みながら、妹の方を心配そうに見てお辞儀を二、三度して帰って行ってしまいました。「Mさんが駈けこんで来なすって、お前たちのことをいいなすった時には、私は眼がくらむようだったよ。おとうさんやお母さんから頼まれていて、お前たちが・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・トンミイ、フレンチ君が、糊の附いた襟が指に障るので顫えながら、嵌まりにくいシャツの扣鈕を嵌めていると、あっちの方から、鈍い心配気な人声と、ちゃらちゃらという食器の触れ合う音とが聞える。「あなた、珈琲が出来ました。もう五時です。」こう云う・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・と名を呼ばれる度に何の心配もなく庭に走り出るようになった。クサカは人の持物になった。クサカは人に仕えるようになった。犬の身にとっては為合者になったのではあるまいか。 この犬は年来主人がなくて饑渇に馴れて居るので、今食物を貰うようになって・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・したがって我々はおのおのその欲する時、欲するところに勝手にこの名を使用しても、どこからも咎められる心配はない。しかしそれにしても思慮ある人はそういうことはしないはずである。同じ町内に同じ名の人が五人も十人もあった時、それによって我々の感ずる・・・ 石川啄木 「時代閉塞の現状」
・・・道理こそ、お父さんが大層な心配だ。……新坊、小母さんの膝の傍へ。――気をはっきりとしないか。ええ、あんな裏土塀の壊れ木戸に、かしほんの貼札だ。……そんなものがあるものかよ。いまも現に、小母さんが、おや、新坊、何をしている、としばらく熟と視て・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・子のないということはずいぶん厄介ですぜ、しかし私はあきらめている、で罪のない妻に心配させるようなことはけっしてしませんなどいう。予もまた子のあるなしは運命でしかたがない、子のある人は子のあるのを幸福とし、子のない人は子のないを幸福とするのほ・・・ 伊藤左千夫 「紅黄録」
・・・親達は心配していろいろの意見するけれ共一度でも親の云う通りにはならないで「一体何と思って居らっしゃるんだか。此んなに家の富栄えるのも元はと云えば私が智慧をつけたからじゃあありませんか」と折々大事を云い出してはおびやかすので自分の子ながらもて・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・僕などは、『召集されないかて心配もなく、また召集されるような様子になったら、その前からアメリカへでも飛んで行きたいんを、わが身から進んでそないに力んだかて阿房らしいやないか? て』冷かしてやったんけど大した意気込みで不平を云うとって、取り合・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・当時の印刷局長得能良介は鵜飼老人と心易くしていたので、この噂を聞くと真面目になって心配し、印刷局へ自由勤めとして老人を聘して役目で縛りつけたので、結局この計画は中止となり、高橋の志道軒も頓挫してしまった。マジメに実行するツモリであったかドウ・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
出典:青空文庫