・・・誰が禅みたいなあほらしいものに引かかって、自分の生きる死ぬるの大事なことを忘れる奴があるか!」と、私はムッとして声を励まして言ったが、多少図星を指された気がした。「それではとにかく行李を詰めましょうか」と、弟はおとなしく起って、次ぎの室・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・私は、家へ来たある謹厳な客が、膝へあがって来た仔猫の耳を、話をしながら、しきりに抓っていた光景を忘れることができない。 このような疑惑は思いの外に執念深いものである。「切符切り」でパチンとやるというような、児戯に類した空想も、思い切って・・・ 梶井基次郎 「愛撫」
・・・ 十幾本の鉤を凧糸につけて、その根を一本にまとめて、これを栗の木の幹に結び、これでよしと、四郎と二人が思わず星影寒き大空の一方を望んだ時の心持ちはいつまでも忘れる事ができません。 もちろん雁のつれるわけがないので、その後二晩ばかりや・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・それは夫婦というものが、人間という生きもののかりのきめであることを忘れるからである。この天与の性的要求の自由性と、人間生活の理想との間に矛盾が起こるのはむしろ当然のことである。この際自由の抑制、すなわち善というわけにいかぬものがある。 ・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
・・・そして自分の出来るだけ忠実に働いて、叔父が我が挙動を悦んでくれるのを見て自分も心から喜ぶ余りに、叔母の酷さをさえ忘れるほどであった。それで二度までも雁坂越をしようとした事はあったのであるが、今日まで噫にも出さずにいたのであった。 ただよ・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・私は今でもあの娘の身体のきずを忘れることが出来ません。 中山のお母さんはそういって、唇をかんだ。――一九三一・一一・一四―― 小林多喜二 「疵」
・・・しまいには自分で自分の声に聞き惚れて、町の中を吟じて通ることも忘れるほど夢中になった。 漸く俥はある町へ行って停った。「御隠居さん、今日はお目出度うございます」 と祝ってくれる車夫の声を聞いて、おげんは俥から降りた。 その時・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・ けれども、誰が心労を忘れることが出来ましょう? 夜も昼も、スバーの両親の心は彼女の為に痛んでいるのでした。 わけても、母親は彼女を、まるで自分の不具のように思って見ました。母にとって、娘と云うものは、息子よりずっと自分に親しい一部・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・私は井伏さんの顔を見た。皆に囲まれて籐椅子に坐って、ああ、あのときの井伏さんの不安の表情。私は忘れることが出来ない。それから、どうなったか、私には、正確な記憶が無い。 井伏さんも酔わず、私も酔わず、浅く呑んで、どうやら大過なく、引き上げ・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・半年程留守を明けて、変った事物を見聞して来るうちには、ドリスを忘れるだろうと云うのである。勿論漫遊だって、身分相応にするので、見て廻らなくてはならない箇所が頗る多い。墺匈国で領事の置いてある所では、必ず面会しなくてはならない。見聞した事は詳・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
出典:青空文庫