・・・客の頭にはあらかじめ被殺害者に対する憎悪という魔薬が注射されているから、かえって一種の痛快な感じをいだかせ、この殺人があたかも道徳的に賛美すべきものであるような錯覚を起こさせピストルの音によって一種の快いスリルを味わわせる。映画というものは・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(4[#「4」はローマ数字、1-13-24])」
・・・休憩時間に廊下へ出て腰かけて煙草でも吹かしていると、自然にのどかなあくびを催して来る、すると今までなんとなしにしゃちこばってぎこちないものに見えた全世界が急になごやかに快いものに感ぜられて来て、眼前を歩いている見知らぬ青年男女にもなんとない・・・ 寺田寅彦 「映画と生理」
・・・ そんなことを考えながら、T君の山男のような蓬髪としわくちゃによごれやつれた開襟シャツの勇ましいいで立ちを、スマートな近代的ハイカーの颯爽たる風姿と思い比べているうちに、いつか快い眠りに落ちて行ったことであった。・・・ 寺田寅彦 「小浅間」
・・・看護婦がどうも分らないと答えると、隣の人はだいぶん快いので朝起きるすぐと、運動をする、その器械の音なんじゃないか羨ましいなと何遍も繰り返したと云う話である。「そりゃ好いが御前の方の音は何だい」「御前の方の音って?」「そらよく大根・・・ 夏目漱石 「変な音」
・・・お前さんとこうして――今朝こうして酌をしてもらッて、快い心持に酔ッて去りゃ、もう未練は残らない。昨夜の様子じゃ、顔も見せちゃアもらえまいと思ッて、お前さんに目ッかッたら怒られたかも知れないが、よそながらでも、せめては顔だけでもと思ッて、小万・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・等、実に夥しい言葉かずと気くばりをしているのに、あの機械的な、ありがとうございます、の連発を聞いて、快い人が果して何人あるでしょう。 会社はどうしても一人に一度のありがとうございますを与えたいというのならば、ステップを降りるときバネで「・・・ 宮本百合子 「ありがとうございます」
・・・ 段々気が入って、ペン先の中に皆自分がこもってしまった様になると、背中の方から段々暑さが忘られて来るのが真に快い。 宮本百合子 「一日」
・・・特に、イサベルが激しい熱情で悲惨な身の上話を始めてからの周囲は、自分にとって真個に快いものでなかった。 第一、今の今まで女王だとか、お前のおかげだとか、わいわい騒いでいた者達が、話せ話せと云って身の上話をさせながら、話し手が我と泣き倒れ・・・ 宮本百合子 「印象」
・・・湯の青色と女の体、女の体と髪の黒色、あるいは処々に散らばる赤、窓外の緑と檜の色、などの対照も、きわめて快い調和を見せている。濃淡の具合も申しぶんがない。――しかし難を言えば、どうも湯の色が冷たい。透明を示すため横線を並べた湯の描き方も、滑ら・・・ 和辻哲郎 「院展遠望」
・・・苦しいほどの緊張は快い静かな歓喜に返って行き、心臓の鼓動はまたゆるやかに低い調子を取り返す。 けれどもこの穏やかさは、視覚に集中した心が聴覚の方へ中心を移す一つの中間状態に過ぎない。僧侶たちが、仏を礼讃する心持ちにあふれながら読誦するあ・・・ 和辻哲郎 「偶像崇拝の心理」
出典:青空文庫