・・・ このヤコブと天使との相撲の話は、私にはまた子供の時分に郷里の高知でよく聞かされた怪談を思い出させる。 昔の土佐には田野の間に「シバテン」と称する怪物がいた。たぶん「柴天狗」すなわち木の葉天狗の意味かと想像される。夜中に田んぼ道を歩・・・ 寺田寅彦 「相撲」
・・・と言ったものらしい、というのは自分らの子供時代におとなからしばしば聞かされたたぬきの怪談のさまざまの中に、この動物が夜中に牡蠣売りに化けて「カキャゴーカキャゴー」と呼び歩くというのがあって、われわれはよく夜道を歩きながらそのたぬきのまねをす・・・ 寺田寅彦 「物売りの声」
・・・ 私は小学校へ行くほどの年齢になっても、伝通院の縁日で、からくりの画看板に見る皿屋敷のお菊殺し、乳母が読んで居る四谷怪談の絵草紙なぞに、古井戸ばかりか、丁度其の傍にある朽ちかけた柳の老木が、深い自然の約束となって、夢にまで私をおびえさせ・・・ 永井荷風 「狐」
・・・ わたくしはラフカヂオ・ハーンが『怪談』の中に、赤坂紀の国坂の暗夜のさま、また市ヶ谷瘤寺の墓場に藪蚊の多かった事を記した短篇のあることを忘れない。それらはいずれも東京のむかしを思起させるからである。 ○ わ・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・まるで林屋正三の怪談だ」「いや実際行ったんだから、しようがない」と津田君は教育ある人にも似合ず、頑固に愚な事を主張する。「しようがないって――何だか見て来たような事を云うぜ。おかしいな、君本当にそんな事を話してるのかい」「無論本・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・無教育なる下等の暗黒社会なれば尚お恕す可きなれども、苟も上流の貴女紳士に此奇怪談は唯驚く可きのみ。思うに此英語夫婦の者共は、転宅の事を老人に語るも無益なり、到底その意に任せて左右せしむ可き事に非ずとて、夫婦喃々の間に決したることならんなれど・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・材料 蕪村は狐狸怪をなすことを信じたるか、たとい信ぜざるもこの種の談を聞くことを好みしか、彼の自筆の草稿新花摘は怪談を載すること多く、かつ彼の句にも狐狸を詠じたるもの少からず。公達に狐ばけたり宵の春飯盗む狐追ふ声・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・何か怪談のような話題でも出ますと、つい杉葉のきれたのも忘れてしまって、攻め寄せてくる蚊軍に驚いて「どうだいちっとくべようじゃないか」と云う風にまたくべ出したりするようなこともあります。風のない夜は紫の煙が真直に空にのぼってゆきますけれど、少・・・ 宮本百合子 「蚊遣り」
・・・長崎に切支丹伝道が始って間もなく建った、とーどのさんた寺の跡だという春徳寺や、怪談の絡まる切支丹井戸の在る本蓮寺などへ行って見る予定を変え、悠くり家居することにした。宿の高い欄干から外を眺めると、雨にけむる湾内の景色が見渡せる。眼下は、どこ・・・ 宮本百合子 「長崎の印象」
・・・客観的には元から幽霊は幽霊であったのだが、昔それに無い内容を嘘き入れて、有りそうにした主観までが、今は消え失せてしまっている。怪談だの百物語だのと云うものの全体が、イブセンの所謂幽霊になってしまっている。それだから人を引き附ける力がない。客・・・ 森鴎外 「百物語」
出典:青空文庫