・・・私がその顔の色と、怯えた様子とてはなかったそうでございましてな。……お社前の火事見物が、一雪崩になって遁げ下りました。森の奥から火を消すばかり冷たい風で、大蛇がさっと追ったようで、遁げた私は、野兎の飛んで落ちるように見えたということでござい・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・……と送って出しなの、肩を叩こうとして、のびた腰に、ポンと土間に反った新しい仕込みの鯔と、比目魚のあるのを、うっかり跨いで、怯えたような脛白く、莞爾とした女が見える。「くそったれめ。」 見え透いた。が、外套が外へ出た、あとを、しめざ・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・ さっきから障子の外に、様子を窺っておりましたものと見える、誰か女中の影に怯えたのでありまする。笑うやら、喚くやら、ばたばたという内に、お鉄が障子を閉めました。後の十畳敷は寂然と致し、二筋の燈心は二人の姿と、床の間の花と神農様の像を、朦・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・ いかにも、そんげえなものには怯えまい、面魂、印半纏も交って、布子のどんつく、半股引、空脛が入乱れ、屈竟な日傭取が、早く、糸塚の前を摺抜けて、松の下に、ごしゃごしゃとかたまった中から、寺爺やの白い眉の、びくびくと動くが見えて、「蜻蛉・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・まして、村の若い者、仙二位の男達だって、赤児で始めて沢や婆さんの顔を見、怯えて泣き立てて以来、見なれて、改った身元の穿索もせずに来た。村の往道に一本、誰のものとも判らない樫の木が飛び生えていた。その樫の木はいつ其那ところへ芽を出したのだろう・・・ 宮本百合子 「秋の反射」
・・・ 仔犬は、鳴きもせず、怯えた風もなく、まるで綿細工のようにすっぽり白い尾を、チぎれそうに振り廻して、彼の外套の裾に戯れて居る。 私は、庭下駄を突かけてたたきに降りた。そして「パッピー、パッピー」と手を出すと、黒いぬれ・・・ 宮本百合子 「犬のはじまり」
・・・ 私は、その雀が、何かに怯えて、一散に屋根へ戻った後、猶二掴三掴の粟を庭に撒いた。明日まだ靄のある暁のうち、彼等の仲間は、安心して此処におり、彼那におじけず、幾粒かの餌を拾うことが出来るだろう。・・・ 宮本百合子 「餌」
・・・ トルストイアンと称する連中にとりかこまれ、無抵抗主義の信条で、全財産を放棄したがっているトルストイの希望に、怯え、憎悪し、それとの闘争に立ち向った第一の人は夫人ソフィヤと五男のアンドレイであった。ソフィヤ夫人は、子供等に対する家庭の父・・・ 宮本百合子 「ジャンの物語」
・・・ 私の云った事が此れ程の報酬を受けなければならない程大変悪い事であったろうとはどうしても思えなかったので、すっかり怯えた心持に成って仕舞った。 自分の大切に思って居る人から叱られる事は私には一番たまらない事である。 もう先(ぐに・・・ 宮本百合子 「追憶」
・・・やっと発展させる可能な条件が社会に現れた今日の日本で、一心に自分を成長させ人間の歴史に何事かを加えたいと希望している愛憐らしい若い人たちが、怯えた苦悩のあらわれた瞳で眺めやっているのは何だろう。インフレーションによって人間の社会的良心さえも・・・ 宮本百合子 「人間の結婚」
出典:青空文庫