・・・僕は爾来十余年、未だ天下に彼の如く恐るべき論客あるを知らず。若し他に一人を数うべしとせば、唯児島喜久雄君あるのみ。僕は現在恒藤と会うも、滅多に議論を上下せず。上下すれば負ける事をちゃんと心得ている故なり。されど一高にいた時分は、飯を食うにも・・・ 芥川竜之介 「恒藤恭氏」
・・・ある。その運動は目に見えない位に微細である。しかし革紐が緊しく張っているのと、痙攣のように体が顫うのとを見れば、非常な努力をしているのが知れる。ある恐るべき事が目前に行われているのが知れる。「待て。」横の方から誰やらが中音で声を掛けた。・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・そんな事より、恐るべきは兵糧でしたな。」「そうだってねえ。今じゃ笑いばなしになったけれど。」「余りそうでもありません。しかしまあ、お庇様、どうにか蚊帳もありますから。」「ほんとに、どんなに辛かったろう、謹さん、貴下。」と優しい顔・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・その腸を二升瓶に貯える、生葱を刻んで捏ね、七色唐辛子を掻交ぜ、掻交ぜ、片襷で練上げた、東海の鯤鯨をも吸寄すべき、恐るべき、どろどろの膏薬の、おはぐろ溝へ、黄袋の唾をしたような異味を、べろりべろり、と嘗めては、ちびりと飲む。塩辛いきれの熟柿の・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・冷々然として落着き澄まして、咳さえ高うはせず、そのニコチンの害を説いて、一吸の巻莨から生ずる多量の沈澱物をもって混濁した、恐るべき液体をアセチリンの蒼光に翳して、屹と試験管を示す時のごときは、何某の教授が理化学の講座へ立揚ったごとく、風采四・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・、人を量るが如くに量らるるのである、其日に於て矜恤ある者は矜恤を以て審判かれ、残酷無慈悲なる者は容赦なく審判かるるのである、「我等に負債ある者を我等が免す如く我等の負債を免し給え」、恐るべき審判の日に於て矜恤ある者は矜恤を以て鞫かるべしとの・・・ 内村鑑三 「聖書の読方」
・・・その他のものはどうせことごとく生滅する夢幻にすぎないのだから、恐るべきは過ちや、失則や、沈淪ではなくして、信仰を求める誠の足りなさである。 二 母性愛 私の目に塵が入ると、私の母は静かに私を臥させて、乳房を出して乳汁・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・彼はもう失うべき何物もなかった。恐るべき何者もなかった。どうせ死へ追いやられるばかりだ。 彼等は丘を下って行った。胸には強暴な思想と感情がいっぱいになっていた。足を引きずっているものがある。ひょっく/\跛を引いている者がある。防寒帽・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・すなわち、その恥ずべく、忌むべく、恐るべきは、刑で死ぬということにあるのではなくて、死者その人の極悪の性質、重罪のおこないにあるのではないか。 フランス革命の梟雄マラーを一刀で刺殺して、「予は万人を救わんがために一人を殺せり」と、法廷で・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・めに心身を損うが如きことなき世の中となれば、人は大抵其天寿を全くするを得るであろう、私は斯様な世の中が一日も速く来らんことを望むのである、が、少くとも今日の社会、東洋第一の花の都には、地上にも空中にも恐るべき病菌が充満して居る、汽車・電車は・・・ 幸徳秋水 「死生」
出典:青空文庫