・・・ 私は恐縮してしまった。「いやけっしてその、そんな風に考えているというわけでもないのだがね……。それでやはり、原口君もいくらか借りてるというわけかね?」「そうだよ。高はいくらでもないが、今朝までにはきっと持ってくるという約束で持・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・ 耕吉は最後の一句に止めを刺されたような気がして、恐縮しきって、外へ出た。 銀座の方へ廻ると言って電車に乗った芳本と別れて、耕吉は風呂敷包を右に左に持替えて、麹町の通りを四谷見附まで歩いた。秋晴の好天気で、街にはもう御大典の装飾がで・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・自分がそばで聴くとは思いがけない事ゆえ、大いに恐縮している者もある。それもそのはずで、読む手紙も読む手紙もことごとく長崎より横須賀より、または品川よりなど、初めからそんなのばかり撰んで持ち合ったのだから、一として彼らの情事に関しないものはな・・・ 国木田独歩 「遺言」
・・・代りに遣る品が立派なものなら、却って喜んで恐縮しようぞ。分ったろう。……帰って宜う云え。」 話すに明らさまには話せぬ事情を抱いていて、笛の事だけを云ったところを、斯様すらりと見事に捌かれて、今更に女は窮して終った。口がききたくても口がき・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・「空論をお話して一向とりとめがないけれど、それは恐縮でありますが、丁度このごろ解析概論をやっているので、ちょっと覚えているのですが、一つの例として級数についてお話したい。二重もしくは、二重以上の無限級数の定義には、二種類あるのではないか、と・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・ 謙譲を、作家にのみ要求し、作家は大いに恐縮し、卑屈なほどへりくだって、そうして読者は旦那である。作家の私生活、底の底まで剥ごうとする。失敬である。安売りしているのは作品である。作家の人間までを売ってはいない。謙譲は、読者にこそ之を要求・・・ 太宰治 「一歩前進二歩退却」
暑いですね。ことしは特に暑いようですね。実に暑い。こんなに暑いのに、わざわざこんな田舎にまでおいで下さって、本当に恐縮に思うのですが、さて、私には何一つ話題が無い。上衣をお脱ぎになって下さい。どうぞ。こんな暑いのに外を歩くのはつらいも・・・ 太宰治 「炎天汗談」
・・・私はますます弱ってしまうのであった。私は恐縮して監督と警官に丁寧に挨拶して急いでそこを立去った。別の切符は結局渡さなかったのである。 仕合せな事には、こういう場合に必然な人だかりは少しもしなかった。それで私が今こんな事を書かなければ、私・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・ 上記のごとき自由な気持で読んでくれる読者とちがって自分の一番恐縮するのは小中学の先生で、教科書に採録された拙文に関して詳細な説明を求められる方々である。「常山の花」と題する小品の中にある「相撲取草」とは邦語の学名で何に当るかという・・・ 寺田寅彦 「随筆難」
・・・生徒一同もすっかりしょげてしまい恐縮してしまったのであったが、とにかくもう一ぺん試験のやり直しをすることになり、今度は普通の中学校式の問題であったから、みんなどうにか及第点をとって、それで事は落着したのであった。 たしか二年のときであっ・・・ 寺田寅彦 「田丸先生の追憶」
出典:青空文庫