・・・夜は十二時一時と次第に深けわたる中に、妻のお光を始め、父の新五郎に弟夫婦、ほかに親内の者二人と雇い婆と、合わせて七人ズラリ枕元を囲んで、ただただ息を引き取るのを待つのであった。力ない病人の呼吸は一息ごとに弱って行って、顔は刻々に死相を現わし・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・ころへ女の来る道理がないから、不思議に思ってよく見ようとするが、奇妙に、その紫色の帯の処までは、辛うじて見えるが、それから上は、見ようとして、幾ら身を悶掻いても見る事が出来ない、しかもこの時は、非常に息苦しくて、眼は開いているが、如何しても・・・ 小山内薫 「女の膝」
・・・蝉の声もいつかきこえず、部屋のなかに迷い込んで来た虫を、夏の虫かと思って、団扇ではたくと、ちりちりとあわれな鳴声のまま、息絶える。鈴虫らしい。八月八日、立秋と、暦を見るまでもなく、ああ、もう秋だな、と私は感ずるのである。ひと一倍早く……。・・・ 織田作之助 「秋の暈」
・・・少し休息したらまた旧処へ戻ろう。幸いと風を後にしているから、臭気は前方へ持って行こうというもの。 全然力が脱けて了った。太陽は手や顔へ照付ける。何か被りたくも被る物はなし。責て早く夜になとなれ。こうだによってと、これで二晩目かな。 ・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・ 無事に着いた、屹度十日までに間に合せて金を持って帰るから――という手紙一本あったきりで其後消息の無い細君のこと、細君のつれて行った二女のこと、また常陸の磯原へ避暑に行ってるKのこと、――Kからは今朝も、二ツ島という小松の茂ったそこの磯・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・何だか身体の具合が平常と違ってきて熱の出る時間も変り、痰も出ず、その上何処となく息苦しいと言いますから、早速かかりつけの医師を迎えました。その時、医師の言われるには、これは心臓嚢炎といって、心臓の外部の嚢に故障が出来たのですから、一週間も氷・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・ 酔った方の男はひどく相手の言ったことに感心したような語調で残っていたビールを一息に飲んでしまった。「そうだ。それであなたもなかなか窓の大家だ。いや、僕はね、実際窓というものが好きで堪らないんですよ。自分のいるところからいつも人の窓・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・今十二通の裏にみなぎる春の楽しみを変えて三通を貫く苦き消息となしたもうは貴嬢ならずや。貴嬢がいかに深き事情ありと弁解きたもうとも、かいなし、宮本二郎が沈みゆく今のありさまに何の関りあらん。かの三通はげに貴嬢が読むを好みたまわぬも理ぞかし、こ・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・が大工の息子もまた夢見る。如何なる時代にあっても青年が夢見なくなるということはあるまじきことであり、もしあるなら人類は衰亡に向かったものである。夢見る、理想主義の青年のみが健やかなる青年であり、次代を荷い、つくる青年なのである。 まして・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・彼は、息を吐きかけられるように不潔を感じた。「一寸居ってくれ給え。」 曹長は、刑法学者では誰れが権威があるとか、そういう文官試験に関係した話を途中でよして、便所へ行くものゝのように扉の外へ出た。 彼は、老人の息がかゝらないように・・・ 黒島伝治 「穴」
出典:青空文庫