・・・この愚直の強さは、かえって神と同列だ。人間でない部分が在る、と彼は、真実、驚倒した。筆を投じて、ソファに寝ころび、彼は、女房とのこれ迄の生活を、また、決闘のいきさつを、順序も無くちらちら思い返してみたのでした。あ、あ、といちいち合点がゆくの・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・ということだったので、さすが愚直の弟子たちも、あまりに無鉄砲なその言葉には、信じかねて、ぽかんとしてしまいました。けれども私は知っていました。所詮はあの人の、幼い強がりにちがいない。あの人の信仰とやらでもって、万事成らざるは無しという気概の・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・そうして、そのような愚直の出来事を、有頂天の喜悦を以て、これは大地の愛情だ、とおっしゃる十郎様のお姿をさえ、あさましく滑稽なものと存じ上げます。私も、もう二十五歳になりました。一年、一年、みんな、ぞろぞろ私から離れて行きます。そうしてみんな・・・ 太宰治 「古典風」
・・・けれども、ペテロは信じていた。愚直に信じていた。イエスが神の子である事を信じていた。だから平気で答えた。イエスは、弟子に教えられ、いよいよ深く御自身の宿命を知った。 二十世紀のばかな作家の身の上に於いても、これに似た思い出があるのだ。け・・・ 太宰治 「誰」
・・・の末に、やっと百五十一枚というところに漕ぎつけて、疲れて、二、三日、自身に休暇を与えて、そうしてことしの正月に舟橋氏と約束した短篇小説の事などぼんやり考えていたのだけれども、私の生れつきの性質の中には愚直なものもあるらしく、胸の思いが、どう・・・ 太宰治 「鉄面皮」
・・・席上東京朝日新聞記者村山某、小池は愚直なりしに汝は軽薄なりと叫び、予に暴行を加う。予村山某と庭の飛石の間に倒れ、左手を傷く。 これに拠って見ると、かの「懇親会」なる小説は、ほとんど事実そのままと断じても大過ないかと思われる。私は、おのれ・・・ 太宰治 「花吹雪」
・・・そのような愚直の、謂わば盲進の状態に在るとき、私は、神の特別のみこころに依り、数々の予告を賜って、けれども、かなしいかな、その予告の真意を解くことができず、どろぼう襲来の直前まで、つい、うっかり、警戒を怠っていたということに就いては、寛大の・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・その青白い油虫の円陣のまんなかにいて、女ひとりが、何か一つの真昼の焔の実現を、愚直に夢見て生きているということは、こいつは悲惨だ。「あなたは、どうお思いなの? 人間は、みんな、同じものかしらん。」考えた末、そんなことを言ってみた。「あた・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・その最初の喧嘩の際、汐田は卒倒せん許りに興奮して、しまいに、滴々と鼻血を流したのであるが、そのような愚直な挿話さえ、年若い私の胸を異様に轟かせたものだ。 そのうちに私も汐田も高等学校を出て、一緒に東京の大学へはいった。それから三年経って・・・ 太宰治 「列車」
・・・それ以来はもう口をつけないでただ前足で蛙の頭をそっと押えつけてみたり、横腹をそっと押してみたりしては首をかしげて見ているだけであった。愚直な蝦蟇は触れられるたびにしゃちこ張ってふくれていた。土色の醜いからだが憤懣の団塊であるように思われた。・・・ 寺田寅彦 「ねずみと猫」
出典:青空文庫