・・・しかし僕は同氏の文章にいまだに愛惜を感じている。ことに東京の空を罩める「鳶色の靄」などという言葉に。 三七 日本海海戦 僕らは皆日本海海戦の勝敗を日本の一大事と信じていた。が、「今日晴朗なれども浪高し」の号外は出ても・・・ 芥川竜之介 「追憶」
・・・ただ、幸いにしてこの市の川の水は、いっさいの反感に打勝つほど、強い愛惜を自分の心に喚起してくれるのである。松江の川についてはまた、この稿を次ぐ機会を待って語ろうと思う。 二 自分が前に推賞した橋梁と天主閣とは二つ・・・ 芥川竜之介 「松江印象記」
・・・殊に自分なぞはそれから七八年、中学から高等学校、高等学校から大学と、次第に成人になるのに従って、そう云う先生の存在自身さえ、ほとんど忘れてしまうくらい、全然何の愛惜も抱かなかったものである。 すると大学を卒業した年の秋――と云っても、日・・・ 芥川竜之介 「毛利先生」
・・・助かるすべもありそうな、見た処の一枝の花を、いざ船に載せて見て、咽喉を突かれてでも、居はしまいか、鳩尾に斬ったあとでもあるまいか、ふと愛惜の念盛に、望の糸に縋りついたから、危ぶんで、七兵衛は胸が轟いて、慈悲の外何の色をも交えぬ老の眼は塞いだ・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・ 同時に、愛惜の念に堪えない。ものあわれな女が、一切食われ一切食われ、木魚に圧え挫がれた、……その手提に見入っていたが、腹のすいた狼のように庫裡へ首を突込んでいて可いものか。何となく、心ゆかしに持っていた折鞄を、縁側ずれに炉の方へ押入れ・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・が、少からず愛惜の念を生じたのは、おなじ麹町だが、土手三番町に住った頃であった。春も深く、やがて梅雨も近かった。……庭に柿の老樹が一株。遣放しに手入れをしないから、根まわり雑草の生えた飛石の上を、ちょこちょことよりは、ふよふよと雀が一羽、羽・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・人の来るのは、なぜか料理番だろうと思ったのは、この池の魚を愛惜すると、聞いて知ったためである。……「何だい、どうしたんです。」 雨戸を開けて、一面の雪の色のやや薄い処に声を掛けた。その池も白いまで水は少ないのであった。 ・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・豹一は妓の白い胸にあるホクロ一つにも愛惜を感じる想いで、はじめて嫉妬を覚えた。博奕打ちに負けたと思うと、血が狂暴に燃えた。妓が「疳つりの半」に誘惑された気持に突き当ると、表情が蒼凄んだ。不良少年と喧嘩する日が多くなった。そして、博奕打ちに特・・・ 織田作之助 「雨」
・・・四 雁次郎横丁――今はもう跡形もなく焼けてしまっているが、そしてそれだけに一層愛惜を感じ詳しく書きたい気もするのだが、雁次郎横丁は千日前の歌舞伎座の南横を西へはいった五六軒目の南側にある玉突屋の横をはいった細長い路地である。・・・ 織田作之助 「世相」
・・・ 私が最後に都会にいた頃――それは冬至に間もない頃であったが――私は毎日自分の窓の風景から消えてゆく日影に限りない愛惜を持っていた。私は墨汁のようにこみあげて来る悔恨といらだたしさの感情で、風景を埋めてゆく影を眺めていた。そして落日を見・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
出典:青空文庫