・・・「つまりあの夢の中の鮒は識域下の我と言うやつなんだ。」――そんな気も多少はしたのだった。 二 ……一時間ばかりたった後、手拭を頭に巻きつけた僕等は海水帽に貸下駄を突っかけ、半町ほどある海へ泳ぎに行った。道は庭先・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・いや、明滅する星の光は我我と同じ感情を表わしているようにも思われるのである。この点でも詩人は何ものよりも先に高々と真理をうたい上げた。真砂なす数なき星のその中に吾に向ひて光る星あり しかし星も我我のように流転を閲すると云うこ・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・これ他なし、幾十年もしくは幾百年幾千年の因襲的法則をもって個人の権能を束縛する社会に対して、我と我が天地を造らむとする人は、勢いまず奮闘の態度を採り侵略の行動に出なければならぬ。四囲の抑制ようやく烈しきにしたがってはついにこれに反逆し破壊す・・・ 石川啄木 「初めて見たる小樽」
・・・ 俯向いて、我と我が口にその乳首を含むと、ぎんと白妙の生命を絞った。ことこと、ひちゃひちゃ、骨なし子の血を吸う音が、舞台から響いた。が、子の口と、母の胸は、見る見る紅玉の柘榴がこぼれた。 颯と色が薄く澄むと――横に倒れよう――とする・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・ いや、こうも、他愛のない事を考えるのも、思出すのも、小北の許へ行くにつけて、人は知らず、自分で気が咎める己が心を、我とさあらぬ方へ紛らそうとしたのであった。 さて、この辻から、以前織次の家のあった、某……町の方へ、大手筋を真直に折・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・ 手足の指を我と折って、頭髪を掴んで身悶えしても、婦は寝るのに蝋燭を消しません。度かさなるに従って、数を増し、燈を殖して、部屋中、三十九本まで、一度に、神々の名を輝かして、そして、黒髪に絵蝋燭の、五色の簪を燃して寝る。 その媚かしさ・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・さる時の我といまの我と、月を隔つる思いあり。青き袷に黒き帯して瘠せたるわが姿つくづくとみまわしながら寂しき山に腰掛けたる、何人もかかる状は、やがて皆孤児になるべき兆なり。 小笹ざわざわと音したれば、ふと頭を擡げて見ぬ。 やや光の増し・・・ 泉鏡花 「清心庵」
・・・ 飛附いて扶けようと思ったが、動けるどころの沙汰ではないので、人はかような苦しい場合にも自ら馬鹿々々しい滑稽の趣味を解するのでありまする、小宮山はあまりの事に噴出して、我と我身を打笑い、「小宮山何というざまだ、まるでこりゃ木戸銭は見ての・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・という気がされ、それがまた永遠の運命でもあるかのような気がされた。我と底抜けの生活から意味もなく翻弄されて、悲観煩悶なぞと言っている自分の憫れな姿も、省られた。 閉店同様のありさまで、惣治は青く窶れきった顔をしていた。そしてさっそくその・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・認識において自己以外の他の物体の存在が他人の存在の確実によって媒介されるように、道徳も自己のみから引き出すことは出来ず、他人の存在に依従している。我と汝とが対立して初めてモラールがあり、ジッテがある。この生活共同態の思想は前にも述べた。道徳・・・ 倉田百三 「学生と教養」
出典:青空文庫