・・・流石に心細かった。所持のお金を大事にした。どうにかなろうという無能な思念で、自分の不安を誤魔化していた。明日に就いての心構えは何も無かった。何も出来なかった。時たま、学校へ出て、講堂の前の芝生に、何時間でも黙って寝ころんでいた。或る日の事、・・・ 太宰治 「東京八景」
・・・私はたと困惑、濡れ鼠のすがたのまま、思い設けぬこの恥辱のために満身かっかっとほてって、蚊のなくが如き声して、いま所持のお金きっちり三十銭、私の不注意でございました。なんとか助けて下さい、と懇願しても、その三十歳くらいの黄色い歯の出た痩せこけ・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
・・・十三、旧き道具を所持せず。十四、我身にとり物を忌むことなし。十五、兵具は格別、余の道具たしなまず。十六、道にあたって死を厭わず。十七、老後財宝所領に心なし。十八、神仏を尊み神仏を頼まず。十九、心常に兵法の道を離れ・・・ 太宰治 「花吹雪」
・・・ 鶴の死骸の枕元には、数種類の新聞と五十銭紙幣二枚と十銭紙幣一枚、それだけ散らばって在ったきりで、他には所持品、皆無であったそうである。 鶴の殺人は、とうとう、どの新聞にも出なかったけれども、鶴の自殺は、関西の新聞の片隅に小さく・・・ 太宰治 「犯人」
・・・さすがの御亭主もこれには辟易致しましたが、ついに一計を案じて、朋友の細君に、こういう飾りいっさいの品々を所持しているものがあるのを幸い、ただ一晩だけと云うので、大切な金剛石の首輪をかり受けて、急の間を合せます。ところが細君は恐悦の余り、夜会・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・このほかに価八、九両ばかりの英辞書一部を所持すればもっともよし。 明治二年己巳八月慶応義塾同社 誌 福沢諭吉 「慶応義塾新議」
・・・千葉のファシスト地下組織は、もと上海特務機関中尉である大島軍司という人物を中心にして、千葉県知事、市長、成田山の僧正、千葉市警察署長、その他各地の警察署長とれんらくして、大島は警察パス、外務省パスを所持して、現在は法務庁に籍を持っているそう・・・ 宮本百合子 「新しい抵抗について」
・・・他二名は誰か、又どうして殺したか、所持品などはどうされたか。 高津正道、佐野学、山川均菊栄氏等もやられたと云う噂あり。実に複雑な世相。一部の人々は皆この際やってしまう方がよいと云う人さえある。社会主義がそれで死ぬものか、むずかしいことだ・・・ 宮本百合子 「大正十二年九月一日よりの東京・横浜間大震火災についての記録」
・・・私が、髪の蓬々とのびている彼に窮屈な場所で会うことが出来るようになった時、俺の所持品はどうしたい? 時計はどうしたい、戻したか、ときいた。 これが所持品全部だと私に渡されたのは、何も入っていない茶皮のポートフォリオと、背広と、鼻からした・・・ 宮本百合子 「時計」
出典:青空文庫