・・・山崎洋服店の裁縫師でもなく、天賞堂の店員でもないわれわれが、銀座界隈の鳥瞰図を楽もうとすれば、この天下堂の梯子段を上るのが一番軽便な手段である。茲まで高く上って見ると、東京の市街も下にいて見るほどに汚らしくはない。十月頃の晴れた空の下に一望・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・雑である以上固より多趣多様千差万別に違ないが、要するに刺戟の来るたびに吾が活力をなるべく制限節約してできるだけ使うまいとする工夫と、また自ら進んで適意の刺戟を求め能うだけの活力を這裏に消耗して快を取る手段との二つに帰着してしまうよう私は考え・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・いかに貴重なる物でも、そはただ人間の手段として貴いのである。世の中に人間ほど貴い者はない、物はこれを償うことが出来るが、いかにつまらぬ人間でも、一のスピリットは他の物を以て償うことは出来ぬ。しかしてこの人間の絶対的価値ということが、己が子を・・・ 西田幾多郎 「我が子の死」
・・・ 人を救うためにはが唯一の手段じゃないか、自分の力で捧げ切れない重い物を持ち上げて、再び落した時はそれが愈々壊れることになるのではないか。 だが、何でもかでも、私は遂々女から、十言許り聞くような運命になった。 四 ・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・他なし、隣国を貧にして自から富むの手段のみ。 かくの如きはすなわち、日耳曼の人民は隣人の貧困をみて愉快を覚ゆる者ならん。けだし今の世界各国の人民は、自から安楽を知りて他の不幸を知らざる者なり。一国内形体の安全を求めて、国外の安全に愉快を・・・ 福沢諭吉 「教育の目的」
・・・趣味を自然に求め、手段を写実に取りし歌、前に『万葉』あり、後に曙覧あるのみ。 されば曙覧が歌の材料として取り来るものは多く自己周囲の活人事活風光にして、題を設けて詠みし腐れ花、腐れ月に非ず。こは『志濃夫廼舎歌集』を見る者のまず感ずるとこ・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・わたしたち人民の判断を、公平で、明朗で、正確なものにするためになくてはならない現実の材料を奪うために、政府はどんな手段をとってきているかが分ります。 ファシズムに対するわたしたちの闘いには、これらのデマゴギーと挑発によって事実を不正確に・・・ 宮本百合子 「新しい抵抗について」
・・・目的は余所になって、手段だけが実行せられる。塵を取るためとは思わずに、はたくためにはたくのである。 尤もこの女中は、本能的掃除をしても、「舌の戦ぎ」をしても、活溌で間に合うので、木村は満足している。舌の戦ぎというのは、ロオマンチック時代・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・その各自の熱情に従って、その美しき叡智と純情とに従って、もしも其爆発力の表現手段が分裂したとしたならば、それは明日の文学の祝福すべき一大文運であらねばならぬ。そうして、明日の文学は分裂するであろう。大いなる酒神は、かの愚な時計の振り子の如く・・・ 横光利一 「黙示のページ」
・・・一平民として今自ら皇室を警衛しようと欲するものは、一体どういう手段を取ればいいのか。それには、正規の手続きを経て、軍人、巡査、警手などになればよい。しかし父はもう老年でこの内のどれにもなれない。しからばあとに残されたのは、皇居離宮などのまわ・・・ 和辻哲郎 「蝸牛の角」
出典:青空文庫