・・・その友は二人分の手荷物を抱えて、学生は例の厄介者を世話して、艀に移りぬ。 艀は鎖を解きて本船と別るる時、乗客は再び観音丸と船長との万歳を唱えぬ。甲板に立てる船長は帽を脱して、満面に微笑を湛えつつ答礼せり。艀は漕出したり。陸を去る僅に三町・・・ 泉鏡花 「取舵」
・・・ 僕は、帰京したら、ひょッとすると再び来ないで済ませるかも知れないと思ったから、持って来た書籍のうち、最も入用があるのだけを取り出して、風呂敷包みの手荷物を拵えた。 遅くなるから、遅くなるからと、たびたび催促はされたが、何だか気が進・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ 彼は、朝も早いのに荷物を出すなんて面倒だから、今夜のうちに切符を買って、先へ手荷物で送ってしまったらいいと思って、「僕、今から持って行って来ましょうか」と言ってみた。一つには、彼自身体裁屋なので、年頃の信子の気持を先廻りしたつもり・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・ 間もなく冬期休課になり、僕は帰省の途について故郷近く車で来ると、小さな坂がある、その麓で車を下り手荷物を車夫に托し、自分はステッキ一本で坂を登りかけると、僕の五六間さきを歩く少年がある、身に古ぼけたトンビを着て、手に古ぼけた手提カバン・・・ 国木田独歩 「非凡なる凡人」
・・・ 母親は片方の眼からだけ涙をポロ/\出しながら、手荷物一つ持って帰ってきた娘にきいた。「キョウサントウだかって……」「何にキョ……キョ何んだって?」「キョウサントウ」「キョ……サン……トウ?」 然し母親は直ぐその名を・・・ 小林多喜二 「争われない事実」
・・・四月二十六日 午後T氏がわざわざ用意して手荷物の中に入れて来た煎茶器を出して洗ったりふいたりした。そしてハース氏夫妻、神戸からいっしょのアメリカの老嬢二人、それに一等のN氏とを食堂に招待してお茶を入れた。菓子はウェーファースとビスケ・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・楠公へでも行くべしとて出立たんとせしがまてしばし余は名古屋にて一泊すれども岡崎氏は直行なれば手荷物はやはり別にすべしとて再び切符の切り換えを求む。駅員の不機嫌顔甚だしきも官線はやはり官線だけの権力とか云うものあるべしと、かしこみて願い奉りよ・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・Henri Bordeaux という人の或る旅行記の序文に、手荷物を停車場に預けて置いたまま、汽車の汽笛の聞える附近の宿屋に寝泊りして、毎日の食事さえも停車場内の料理屋で準え、何時にても直様出発し得られるような境遇に身を置きながら、一向に巴・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・「それでその男が出立をする時細君が色々手伝って手荷物などを買ってやった中に、懐中持の小さい鏡があったそうだ」「ふん。君は大変詳しく調べているな」「なにあとで戦地から手紙が来たのでその顛末が明瞭になった訳だが。――その鏡を先生常に・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・けれども鞄膝掛けその他いっさいの手荷物はすでに宿屋の番頭が始末をして、ちゃんと列車内に運び込んであったので、彼はただ手持ち無沙汰にプラットフォームの上に立っていた。自分は窓から首を出して、重吉の羽二重の襟と角帯と白足袋を、得意げにながめてい・・・ 夏目漱石 「手紙」
出典:青空文庫