・・・私はコソコソと往きとは反対の盗み足で石段を帰ってきたが、両側の杉や松の枝が後ろから招いてる気がして、頸筋に死の冷めたい手触りを感じた。……「で、ゆうべあんなことで、ついフラフラとあの松の枝にぶらさがったはいいとして、今朝になってほん・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・それらの話や会話は、耳の聴覚で聞くよりは、何かの或る柔らかい触覚で、手触りに意味を探るというような趣きだった。とりわけ女の人の声には、どこか皮膚の表面を撫でるような、甘美でうっとりとした魅力があった。すべての物象と人物とが、影のように往来し・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・ 我子の愛に満ちた声を待ち、優さしい手触りに餓えて居るであろう。 けれ共、その子は、親を振向かなかった。 同じ手の力を持ち、顔の輝きを持つ者共と互して、夜は燈の明るい賑いの中に、昼は、自分の好きな事ばかりをして居るのを知った時の・・・ 宮本百合子 「大いなるもの」
・・・そういう箱を開いたとき、芳しく鼻をうった一種独特の西洋の匂いだの、その時分は全く珍しかったティッシュ・ペイパアのさらさらした手触りだのを、今も鮮明に感覚に甦らすことが出来る。 書簡註。この時分の三人の子供達あてのエハガ・・・ 宮本百合子 「中條精一郎の「家信抄」まえがきおよび註」
・・・私はそのフワフワと手触りの柔かい靴を掌に乗せて、暫くは凝っと眺めて居た。 丸い肥った顔と、清んだ朗な高い声、小さい独り言と、太陽のような大笑い。 自分は顔をぎぅーっと挾んだ二つの手が、急にパチパチと頬ぺたを叩く心持さえまざまざと思い・・・ 宮本百合子 「無題(一)」
出典:青空文庫