・・・ところが、鳶の清五郎が、組んで居た腕を解いて、傾げる首と共に、難題を持出した。「全体、狐ッて奴は、穴一つじゃねえ。きつと何処にか抜穴を付けとくって云うぜ。一方口ばかし堅めたって、知らねえ中に、裏口からおさらばをきめられちゃ、いい面の皮だ・・・ 永井荷風 「狐」
・・・旅館に落ち合って、あすこにしよう、ここにしようと評議をしている時に、君はしきりに食い物の話を持ち出した。中華亭とはどう書いたかねと余に聞いた事を覚えている。神田川では、満洲へ旅行した話やら、露西亜人に捕まって牢へぶち込まれた話をしていた。そ・・・ 夏目漱石 「長谷川君と余」
・・・「たとえ、お前が裁判所に持ち出したって、こっちは一億円の資本を擁する大会社だ。それに、裁判はこちらの都合で、五年でも十年でも引っ張れる。その間、お前はどうして食う。裁判費用をどこから出す。ヘッヘッヘッ」と、吉武有と云う、鋳込まれたキャプスタ・・・ 葉山嘉樹 「浚渫船」
・・・ 廊下の方に耳を澄ましながら、吉里は手箪笥の抽匣を行燈の前へ持ち出し、上の抽匣の底を探ッて、薄い紙包みを取り出した。中には平田の写真が入ッていた。重ね合わせてあッたのは吉里の写真である。 じッと見つめているうちに、平田の写真の上には・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・らず、随て婦人の権利を知らず、恰も之を男子手中の物として、要は唯服従の一事なるが故に、其服従の極、男子の婬乱獣行をも軽々に看過せしめんとして、苟も婦人の権利を主張せんとするものあれば、忽ち嫉妬の二字を持出して之を威嚇し之を制止せんとす。之を・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・ とのさまがえるは早速例の鉄の棒を持ち出してあまがえるの頭をコツンコツンと叩いてまわりました。あまがえるはまわりが青くくるくるするように思いながら仕事に出て行きました。お日さまさえ、ずうっと遠くの天の隅のあたりで、三角になってくるりくる・・・ 宮沢賢治 「カイロ団長」
・・・ふき子は、縁側に椅子を持ち出し、背中を日に照らされながらリボン刺繍を始めた。陽子は持って来た本を読んだ。ぬくめられる砂から陽炎と潮の香が重く立ちのぼった。 段々、陽子は自分の間借りの家でよりふき子のところで時間を潰すことが多くなった。風・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・ 書類を持ち出して置いて、椅子に掛けて、木村は例の車掌の時計を出して見た。まだ八時までに十分ある。課長の出勤するまでには四十分あるのである。 木村は高い山の一番上の書類を広げて、読んで見ては、小さい紙切れに糊板の上の糊を附けて張って・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・ 彼は百合を攫むと部屋の外へ持ち出した。が、さて捨てるとなると、その濡れたように生き生きとした花粉の精悍な色のために、捨て処がなくなった。彼は小猫を下げるように百合の花束をさげたまま、うろうろ廊下を廻って空虚の看護婦部屋を覗いてみた。壁・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・子供のころ、まるで理由なしになぐられたり、どなられたりした話を、いくつでも持ち出して、反駁するばかりであった。そこにはむしろ父親に対する憎悪さえも感じられた。それで私ははっと気づいたのである。十歳にならない子供に、創作家たる父親の癇癪の起こ・・・ 和辻哲郎 「漱石の人物」
出典:青空文庫