・・・どんな方だか知らなかったのでございますね。あなたは婦人のお友達二三人とあっちへ避寒に来ていらっしゃったのです。 女。ええ。 男。それからですね。どんな風に事柄が運んで行ったと云うことはあなたもまだ覚えていらっしゃるでしょう。ブダペス・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「最終の午後」
上 この武蔵野は時代物語ゆえ、まだ例はないが、その中の人物の言葉をば一種の体で書いた。この風の言葉は慶長ごろの俗語に足利ごろの俗語とを交ぜたものゆえ大概その時代には相応しているだろう。 ああ・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・ 灸は頭を振り始めた。顔を顰めて舌を出した。それから眼をむいて頭を振った。 女の子の笑い声は高くなった。灸はそのままころりと横になると女の子の足元の方へ転がった。 女の子は笑いながら手紙を書いている母親の肩を引っ張って、「ア・・・ 横光利一 「赤い着物」
・・・更けても暗くはならない、此頃の六月の夜の薄明りの、褪めたような色の光線にも、また翌日の朝焼けまで微かに光り止まない、空想的な、不思議に優しい調子の、薄色の夕日の景色にも、また暴風の来そうな、薄黒い空の下で、銀鼠色に光っている海にも、また海岸・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・ フィンクは思わず八の字髭をひねって、親切らしい風をして暗い隅の方へ向いた。「奥さん。あなたもやはりあちらへ、ニッツアへ御旅行ですか。」「いいえ。わたくしは国へ帰りますの。」「まだ三月ではありませんか。独逸はまだひどく寒いの・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
・・・さすがの美人が憂に沈でる有様、白そうびが露に悩むとでもいいそうな風情を殿がフト御覧になってからは、優に妙なお容姿に深く思いを寄られて、子爵の御名望にも代られぬ御執心と見えて、行つ戻りつして躊躇っていらっしゃるうちに遂々奥方にと御所望なさった・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
一 秋の雨がしとしとと松林の上に降り注いでいます。おりおり赤松の梢を揺り動かして行く風が消えるように通りすぎたあとには、――また田畑の色が豊かに黄ばんで来たのを有頂天になって喜んでいるらしいおしゃべりな雀が羽音をそろえて屋根や軒・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫