・・・殊に、それが現実の物質的な根拠の上に立っての変化でなく、現実の掛声に過敏になりすぎて――あるいはおびえて飛び立っているように感じられる。めまぐるしい文学上の主張や流行の変化を田舎にいて一々知り得る由もないが、わけてもこの頃のあわただしさは、・・・ 黒島伝治 「田舎から東京を見る」
・・・という掛声とともに、別の橇が勢いよく駈けこんできた。手綱が引かれて馬が止ると同時に防寒帽子の毛を霜だらけにした若いずんぐりした支那人がとびおりた。ひと仕事すまして帰ってきたのだ。「どうしたい?」 毛布を丸めている呉清輝にきいた。・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・好い風の来る夕方もすくなく、露の涼しい朝もすくなければ、暁から鳴く蝉の声、早朝からはじまるラジオ体操の掛声まで耳について、毎日三十度以上の熱した都会の空気の中では夜はあっても無いにもひとしかった。わたしは古人の隠逸を学ぶでも何でもなく、何と・・・ 島崎藤村 「秋草」
・・・唯、幌の覗き穴を通して、お玉を乗せた俥の先に動いて行くのと、町の曲り角へでも来た時に前後の車夫が呼びかわす掛声とで、広々としたところへ出て行くことを感じた。さんざん飽きるほど乗って、やがて俥はある坂道の下にかかった。知らない町の燈火は夜見世・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・度もなしに、だらだら並べて、この女難の系統は、私の祖父から発していて、祖父が若いとき、女の綱渡り名人が、村にやって来て、三人の女綱渡りすべて、祖父が頬被りとったら、その顔に見とれて、傘かた手に、はっと掛声かけて、また祖父を見おろし、するする・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・蒲団を持ち上げるとき、よいしょ、と掛声して、はっと思った。私は、いままで、自分が、よいしょなんて、げびた言葉を言い出す女だとは、思ってなかった。よいしょ、なんて、お婆さんの掛声みたいで、いやらしい。どうして、こんな掛声を発したのだろう。私の・・・ 太宰治 「女生徒」
・・・ やっと云う掛声と共に両手が崖の縁にかかるが早いか、大入道の腰から上は、斜めに尻に挿した蝙蝠傘と共に谷から上へ出た。同時に碌さんは、どさんと仰向きになって、薄の底に倒れた。 五「おい、もう飯だ、起きないか」・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・ 二人の気のついた時にはもうかなりはなれた所を浮いて居た。 「アラー」 先に気のついた仙二の娘はとび出した様な声で叫んだ。 掛声をかけられた様に仙二はどてからかけ下りて裾をつまんだまんま水をわたって五六間先に行ったあみをつ・・・ 宮本百合子 「グースベリーの熟れる頃」
・・・ 揚げ幕の後で一種異様にちりぢりばらばらのような刺戟的な大勢の掛声がそれに応える。同時に、左右の花道から、鼓、太鼓、笛、鉦にのって一隊ずつの踊り子が振袖をひるがえして繰り出して来た。彼方の花道を見ようとすると、もう此方から来ている。華や・・・ 宮本百合子 「高台寺」
・・・と云って毛を引っぱる。敵は「コッ」とさけんで飛び上ってこっちに向って来た。いつもコッコッと云って逃げるのに今日は少し風向が狂った□(と思ったが、のりかけた舟、しかたがないと身がまえする。は「コッ」と掛声をして飛び上って顔をつっつこうとする。・・・ 宮本百合子 「三年前」
出典:青空文庫