・・・頭を掻くような恰好をした。と、彼はもう帽子を被っていた。麦藁帽であった。彼の手が、ブルッと顔を撫でると、口髭が生えた。さて、彼は、夏羽織に手を通しながら、入口の処で押し合っている、人混みの中へ紛れ込んだ。 旦那の眼四つは、彼を見たけれど・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・と言いながら逃げようとするのですが、みんな目が見えない上に足がきかないものですからただ草を掻くだけです。 いちばん小さな子はもうあおむけになって気絶したようです。狐ははがみをしました。ホモイも思わず、 「シッシッ」と言って足を鳴らし・・・ 宮沢賢治 「貝の火」
・・・今度は蚤を掻く音が高くきこえるようになった。見ているとそれほどでないのに、姿の見えない離れたところできくと、それは大きい凄じい掻き音である。それでもまだ人は近づけず、景清らしく秋の日に照されている。 黒子だらけの顔・・・ 宮本百合子 「犬三態」
・・・けれども、冷汗を掻くからと云って、凝とすくんで居るべきではございません。持って居るものは育てなければなりません。下らない反動や、反抗やらで、尊い「我」に冒涜を加えず、自分の周囲に渦巻いて居る事象に迷わされず、如何程僅かでも純粋に近い我を保っ・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
・・・ 幸雄が藻掻けば藻掻くほど、腕を捉えている手に力が入ると見え、彼は顔を顰め全身の力で振りもぎろうとしつつ手塚と医員とを蹴り始めた。朝日を捨てて、詰襟の男が近よった。「おい、若いの、頼む、押えつけてくんな」 そのときは桁の上に登っ・・・ 宮本百合子 「牡丹」
・・・しかも両腕は肱の辺までべた一面痣やかさぶたで、掻くなと云われても、掻かずにはいられないのであった。主人が、新参小僧であるゴーリキイの両手を視ながら訊く。「お前は家で何をしていた?」 ゴーリキイは、あった通りのことを云った。「屑拾・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
・・・そして、手拭で頭の汗を掻くと、其を顎の辺に止めたまま、いきなり「今日は、はあお仙さと伺いを立てにいぎやしてなあと話し始めた。何処でも田舎はそうなのか、村では占とか、御祈祷、神様に伺いを立てる等と云う事が非常に流行する。其も、一年の中・・・ 宮本百合子 「麦畑」
・・・大連でみんなが背嚢を調べられましたときも、銀の簪が出たり、女の着物が出たりして恥を掻く中で、わたくしだけは大息張でござりました。あの金州の鶏なんぞは、ちゃんが、ほい、又お叱を受け損う処でござりました、支那人が逃げた跡に、卵を抱いていたので、・・・ 森鴎外 「鶏」
・・・ナポレオンの残忍性はルイザが藻掻けば藻掻くほど怒りと共に昂進した。彼は片手に彼女の頭髪を繩のように巻きつけた。――逃げよ。余はコルシカの平民の息子である。余はフランスの貴族を滅ぼした。余は全世界の貴族を滅ぼすであろう。逃げよ。ハプスブルグの・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
出典:青空文庫