・・・一度、耳の長いやつを狩り出したのであったが、二人ともねらい損じてしまった。逃げかくれたあたりを追跡してさがしたが、どうしても兎はそれから耳を見せなかった。「もう帰ろう。」 小村は立ち止まって、得体の知れない民屋があるのを無気味がった・・・ 黒島伝治 「雪のシベリア」
・・・が、その笑声の終らぬ中に、客はフト気中りがして、鵞鳥が鋳損じられた場合を思った。デ、好い図ですネ、と既に言おうとしたのを呑んでしまった。 主人は、「気中りがしてもしなくても構いませんが、ただ心配なのは御前ですからな。せっかくご天覧い・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・ 学士は華やかな大学時代を想い起したように言って、その骨を挫かれた指で熱球を受け損じた時の真似までして見せた。 三人が連立って湯場を出、桜井先生の別荘の方へ上って行った時は、先生は皆なを待受顔に窓に近い庭石に水をそそいでいた。先生は・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・ ミシンはすこし損じてはいますが、それでも縫い進みました。――人の心臓であったら出血のために動かなくなってしまうほどたくさん針が布をさし通して、一縫いごとに糸をしめてゆきます――不思議な。「ママ今日私は村に行って太陽が見たい、ここは・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・ と、母の機嫌を損じないように、おっかなびっくり、ひとりごとのように呟く。 子供が三人。父は家事には全然、無能である。蒲団さえ自分で上げない。そうして、ただもう馬鹿げた冗談ばかり言っている。配給だの、登録だの、そんな事は何も知らない・・・ 太宰治 「桜桃」
・・・ここは何としても、この親友の御機嫌を損じないように努めなければならぬ。あの三氏の伝説は、あれは修身教科書などで、「忍耐」だの、「大勇と小勇」だのという題でもってあつかわれているから、われら求道の人士をこのように深く惑わす事になるのである。私・・・ 太宰治 「親友交歓」
・・・舌を焼き、胸を焦がし、わが身を、とうてい恢復できぬまでにわざと損じた。百篇にあまる小説を、破り捨てた。原稿用紙五万枚。そうして残ったのは、辛うじて、これだけである。これだけ。原稿用紙、六百枚にちかいのであるが、稿料、全部で六十数円である。・・・ 太宰治 「もの思う葦」
・・・ 諏訪湖畔でも山麓に並んだ昔からの村落らしい部分は全く無難のように見えるのに、水辺に近い近代的造営物にはずいぶんひどく損じているのがあった。 可笑しいことには、古来の屋根の一型式に従ってこけら葺の上に石ころを並べたのは案外平気でいる・・・ 寺田寅彦 「颱風雑俎」
・・・関東地震や北伊豆地震のときに崩れ損じたらしい創痕が到る処の山腹に今でもまだ生ま生ましく残っていて何となく痛々しい。 宮の下で下りて少時待っているうちに、次の箱根町行が来たが、これも満員で座席がないらしいので躊躇していたら、待合所の乗客係・・・ 寺田寅彦 「箱根熱海バス紀行」
・・・その際、おりおり出漁の休日があっても、また魚の数え損じがあってもさしつかえはない。すべての関係量に関してただそれぞれに一定の「平均」というものが存在しさえすればよいのである。 銀座通りの両側の歩道を歩く人の細かな観察の結果からして、一つ・・・ 寺田寅彦 「物質群として見た動物群」
出典:青空文庫