・・・この女の人は平常可愛い猫を飼っていて、私が行くと、抱いていた胸から、いつもそいつを放して寄来すのであるが、いつも私はそれに辟易するのである。抱きあげて見ると、その仔猫には、いつも微かな香料の匂いがしている。 夢のなかの彼女は、鏡の前で化・・・ 梶井基次郎 「愛撫」
・・・明け放したる障子に凭りて、こなたを向きて立てる一人の乙女あり。かの唄の主なるべしと辰弥は直ちに思いぬ。 顔は隔たりてよくも見えねど、細面の色は優れて白く、すらりとしたる立姿はさらに見よげなり。心ともなくこなたを打ち仰ぎて、しきりにわれを・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・「宇一は、だいぶ方々へ放さんように云うてまわりよるらしい。」親爺は、桶を置いて一と息してまた云った。「えゝ……裏切ってやがるな、あいつ!」健二は思わず舌打ちをした。「放したところで、取られるものはどうせ取られるやら知れんのじゃ。・・・ 黒島伝治 「豚群」
・・・故人成田屋が今の幸四郎、当時の染五郎を連れて釣に出た時、芸道舞台上では指図を仰いでも、勝手にしなせいと突放して教えてくれなかったくせに、舟では染五郎の座りようを咎めて、そんな馬鹿な坐りようがあるかと激しく叱ったということを、幸四郎さんから直・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・長いこと養って来た小鳥の巣から順に一羽ずつ放してやってもいいような、そういう日がすでに来ているようにも思えた。しかし私も、それを言い出してみるまでは落ちつかなかった。 ちょうど、三郎は研究所へ、末子は学校へ、二人とも出かけて行ってまだ帰・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・一と畚溜ればうんと引っ抱えて、畦に放した馬の両腹の、網の袋へうつしこむ。馬は畠へ影を投げて笹の葉を喰っている。自分はお長と並んで、畠の隅の蓆の上で煙草を吹かす。双た親は鍬を休めるたびごとには自分の方を向いて話しをする。お長も時々袖を引いて手・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・(乙、目を雑誌より放し、嘲弄の色を帯びて相手を見る。甲、両手を上沓に嵌御覧よ。あの人の足はこんなに小さいのよ。そして歩き付きが意気だわ。お前さんまだあの人の上沓を穿いて歩くとこは見たことがないでしょう。御覧よ・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
・・・「放してくれ!」これはこれ、芸術家のコンフィテオール。それでは、ひとりで何もせずにぼんやりしているときには、どうであろう。口をついて出るというのである、――葛西善蔵は、そのころまだ生きていた。いまのように有名ではなかった。一週間すぎて、ふた・・・ 太宰治 「猿面冠者」
・・・夕方太陽が没してもまだ空のあかりが強い間はこのこぶしは堅くしっかりと握りしめられているが、ちょっと目を放していてやや薄暗くなりかけたころに見ると、もうすべての花は一ぺんに開ききっているのである。スウィッチを入れると数十の電燈が一度にともると・・・ 寺田寅彦 「からすうりの花と蛾」
・・・ 寝ていると、眼は益々冴えてくるし、手や足の関節が、ボキボキと音がして、日向におっぽり放しの肥料桶みたいに、ガタガタにゆるんで、タガがはずれてしまうように感じられた。――起きて縄でもないてぇ、草履でもつくりてぇ、――そう思っても、孝行な・・・ 徳永直 「麦の芽」
出典:青空文庫