・・・何だか意識の閾の外にもいろんなものがあるような気がして、………」「つまりマッチへ火をつけて見ると、いろんなものが見えるようなものだな。」 僕はこんなことを話しながら、偶然僕等の顔だけははっきり見えるのを発見した。しかし星明りさえ見え・・・ 芥川竜之介 「蜃気楼」
・・・私の立っている閾の上からは、机に向って並んでいる二人の横顔が見えました。窓から来るつめたい光をうけて、その顔は二つとも鋭い明暗を作って居ります。そうして、その顔の前にある、黄いろい絹の笠をかけた電燈が、私の眼にはほとんどまっ黒に映りました。・・・ 芥川竜之介 「二つの手紙」
・・・仁右衛門は卑下して出た笠井にちょっと興味を感じて胸倉から手を離して、閾に腰をすえた。暗闇の中でも、笠井が眼をきょとんとさせて火傷の方の半面を平手で撫でまわしているのが想像された。そしてやがて腰を下して、今までの慌てかたにも似ず悠々と煙草入を・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ お民はそのまま、すらりと敷居へ、後手を弱腰に、引っかけの端をぎゅうと撫で、軽く衣紋を合わせながら、後姿の襟清く、振返って入ったあと、欄干の前なる障子を閉めた。「ここが開いていちゃ寒いでしょう。」「何だかぞくぞくするようね、悪い・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・透いて、膝へ紅裏のにじんだ小袖を、ほとんど素膚に着たのが、馬ふんの燃える夜の陽炎、ふかふかと湯気の立つ、雁もどきと、蒟蒻の煮込のおでんの皿盛を白く吐く息とともに、ふうと吹き、四合壜を片手に提げて「ああ敷居が高い、敷居が高い、階子段で息が切れ・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・ 省作は手水鉢へ水を持ってきて、軒口の敷居に腰を掛けつつ片肌脱ぎで、ごしごしごしごし鎌をとぐのである。省作は百姓の子でも、妙な趣味を持ってる男だ。 森の木陰から朝日がさし込んできた。始めは障子の紙へ、ごくうっすらほんのりと影がさす。・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・ 出口の腰障子につかまって、敷居を足越そうとした奈々子も、ふり返りさまに両親を見てにっこり笑った。自分はそのまま外へ出る。物置の前では十五になる梅子が、今鶏箱から雛を出して追い込みに入れている。雪子もお児もいかにもおもしろそうに笑いなが・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・かれは、吉弥との関係上初めは井筒屋のお得意であったが、借金が嵩んで敷居が高くなるに従って、かのうなぎ屋の常客となった。しかしそこのおかみさんが吉弥を田島に取り持ったことが分ってから、また里見亭に転じたのだ。そこでしくじったら、また、もう少し・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ Yはその後も度々故郷へ行ったり上京したりしたが、傷持つ足の自ずと閾が高くなって、いつも手紙をよこすだけでそれぎり私の家へは寄り附かなくなった。が、手紙で知らして来た容子に由ると、その後も続いて沼南の世話になっていたらしく、中国辺の新聞・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・ 表門の石の敷居をまたいで一歩はいると、なにか地面がずり落ちたような気がする。敷居のせいかも知れない。あるいは、われわれが法善寺の魔法のマントに吸いこまれたその瞬間の、錯覚であるかも知れない。夜ならば、千日前界隈の明るさからいきなり変っ・・・ 織田作之助 「大阪発見」
出典:青空文庫