・・・この教信は好事の癖ある風流人であったから、椿岳と意気投合して隔てぬ中の友となり、日夕往来して数寄の遊びを侶にした。その頃椿岳はモウ世間の名利を思切った顔をしていたが、油会所の手代時代の算盤気分がマダ抜けなかったと見えて、世間を驚かしてやろう・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・殊に短冊へ書くのが大嫌いで、日夕親炙したものの求めにさえ短冊の揮毫は固く拒絶した。何でも短冊は僅か五、六枚ぐらいしか書かなかったろうという評判で、短冊蒐集家の中には鴎外の短冊を懸賞したものもあるが獲られなかった。 日露戦役後、度々部下の・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・が、それには違いなくても主人なり恩師なりの眼を掠めてその最愛の夫人の道ならぬ遊戯のオモチャになったYの破廉恥を私は憤らずにはいられなかった。Yは私の門生でも何でもなかった。が、日夕親しく出入していただけに私までが馬鹿にされたような不快を感じ・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・朝、起きてから、日夕点呼をすまして、袋のような毛布にくるまって眠入ってしまうまで、なか/\容易でない。一と通りの労力を使っていたのではやって行けない。掃除もあれば、飯上げもある。二年兵の食器洗い、練兵、被服の修理、学科、等々、あとからあとへ・・・ 黒島伝治 「入営前後」
・・・けれども、私は、いつの日か、一丈ほどの山椒魚を、わがものにしたい、そうして日夕相親しみ、古代の雰囲気にじかに触れてみたい、深山幽谷のいぶきにしびれるくらい接してみたい、頃日、水族館にて二尺くらいの山椒魚を見て、それから思うところあってあれこ・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
出典:青空文庫