・・・私が逃げてしまって、三日目の日暮まで、ここに帰って来なかったら、あの友人を絞め殺して下さい。たのむ、そうして下さい。」 それを聞いて王は、残虐な気持で、そっと北叟笑んだ。生意気なことを言うわい。どうせ帰って来ないにきまっている。この嘘つ・・・ 太宰治 「走れメロス」
・・・表の河岸通には日暮と共に吹起る空ッ風の音が聞え出すと、妾宅の障子はどれが動くとも知れず、ガタリガタリと妙に気力の抜けた陰気な音を響かす。その度々に寒さはぞくぞく襟元へ浸み入る。勝手の方では、いっも居眠りしている下女が、またしても皿小鉢を破し・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・ 縁側から上って来た鶏は人の追わざるに再び庭に下りて頻に友を呼んでいる。日暮の餌をあさる鶏には、菓子鉢の菓子は甘すぎたのであろう。 唖々子は既にこの世にいない。その俳句文章には誦すべきものが尠くない。子は別に不願醒客と号した。白氏の・・・ 永井荷風 「梅雨晴」
・・・中につきて数句を挙ぐれば草霞み水に声なき日暮かな燕啼いて夜蛇を打つ小家かな梨の花月に書読む女あり雨後の月誰そや夜ぶりの脛白き鮓をおす我れ酒かもす隣あり五月雨や水に銭蹈む渡し舟草いきれ人死をると札の立つ秋風・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・ 広い通りや、狭い通りを抜けて、走る電車の前を突切る早業に、魂をひやしてお金の家へついたのは、もう日暮れに近かった。 格子の前で、かすかに震える手から車夫にはらってから、とげとげした声で、 御免と云った。 内から・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・ 日暮方、男は又御龍の玄関の前に立った。せまい一つぼのたたきの上には見なれない男下駄がぬぎっぱなしになって居た。男はフッと自分がこの上なくいやに思って居る事を連想してプッとつばを吐いてあともどりをした。「もう来るもんか、ウン女があや・・・ 宮本百合子 「お女郎蜘蛛」
・・・ もう日暮で――冬は午後四時にとっぷり暗くなる――折から一台の空橇が雪道を村へ向ってやって来た。 森の中から子供の泣き声がする。百姓は恐怖した。チミの仕業だと思ったのだ。彼は手綱をとって馬の腹をうった。森の中から児供の泣き声は次第に・・・ 宮本百合子 「一九二九年一月――二月」
・・・ 午後ももう日暮方になって京子は重そうな銀杏返しに縞の着物を着て手が目立って大きく見える様な形恰をして来た。 随分待って居たんだけれど昨夜だけはどうしたんだか出掛けた処へ貴方が来たんだもの。 悪うござんしたねえ。 京・・・ 宮本百合子 「千世子(二)」
・・・女君は額髪をぬらしたまま被衣をかけて身じろぎもしないでいらっしゃるので乳母は今更のように悪い事をしたと思ってそっと几帳の間から中をのぞいてはホッと吐息をついて居た。日暮方、明障子を細めに小さい手がのぞいてパタリとかるくたおれたもの音にそれと・・・ 宮本百合子 「錦木」
・・・しょうりょうという褐色の蜻あり、群をなして飛べり。日暮るる頃山田の温泉に着きぬ。ここは山のかいにて、公道を距ること遠ければ、人げすくなく、東京の客などは絶て見えず、僅に越後などより来りて浴する病人あるのみ。宿とすべき家を問うにふじえやという・・・ 森鴎外 「みちの記」
出典:青空文庫