・・・ 豪雨は今日一日を降りとおして更に今夜も降りとおすものか、あるいはこの日暮頃にでも歇むものか、もしくは今にも歇むものか、一切判らないが、その降り止む時刻によって恐水者の運命は決するのである。いずれにしても明日の事は判らない。判らぬ事には・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・今日の日暮はたしかにその機であった。ぞっと身振いをするほど、著しき徴候を現したのである。しかし何というても二人の関係は卵時代で極めて取りとめがない。人に見られて見苦しい様なこともせず、顧みて自ら疚しい様なこともせぬ。従ってまだまだ暢気なもの・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・自分はお松は使にでも行ったことと思って気にもしなかった。日暮になってもお松は居なかった。毎晩のように竈の前に藁把を敷いて自分を暖まらしてくれた、お松が居ないので、自分は始めてお松はどうしたのだろうかと思った。姉がせわしなく台所の用をしながら・・・ 伊藤左千夫 「守の家」
・・・みんなは、日暮に間近くなって吹く、外の嵐の音に耳を傾けているか、野に、丘に、圃に働いて、体を冷やして帰って来る家族の余の人々を待っているようであります。 こうした、つゝましやかな生活には、愛と平和とやさしみとがあふれている。それは真に涙・・・ 小川未明 「民衆芸術の精神」
・・・舟繋ぎおわれば臥席巻きて腋に抱き櫓を肩にして岸に上りぬ。日暮れて間もなきに問屋三軒皆な戸ざして人影絶え人声なし。源叔父は眼閉じて歩み我家の前に来たりし時、丸き眼みはりてあたりを見廻わしぬ。「我子よ今帰りしぞ」と呼び櫓置くべきところに櫓置・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・冬の旅人の日暮れて途遠きを思う時、遥かに望みて泣くはげにこの火なり。 伊豆の山燃ゆ、伊豆の山燃ゆと、童ら節おもしろく唄い、沖の方のみ見やりて手を拍ち、躍り狂えり。あわれこの罪なき声、かわたれ時の淋びしき浜に響きわたりぬ。私語くごとき波音・・・ 国木田独歩 「たき火」
・・・――北満の日暮は早やかった。経理室から配給された太い、白い、不透明なローソクは、棚の端に、二三滴のローを垂らして、その上に立てゝあった。殺伐な、無味乾燥な男ばかりの生活と、戦線の不安な空気は、壁に立てかけた銃の銃口から臭う、煙哨の臭いにも、・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・小石原にていよいよ堪え難きに、雨降り来り日暮るるになんなんたり。やむをえず負える靴をとりおろして穿ち歩むに、一ツ家のわらじさげたるを見当り、うれしやと立寄り一ツ求めて十銭札を与うるに取らず、通用は近日に廃せらるる者ゆえ厭い嫌いて、この村にて・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
・・・絵本の観兵式の何百人となくうようよしている兵隊、馬に乗っている者もあり、旗持っている者もあり、銃担っている者もあり、そのひとりひとりの兵隊の形を鋏でもって切り抜かせ、不器用なお慶は、朝から昼飯も食わず日暮頃までかかって、やっと三十人くらい、・・・ 太宰治 「黄金風景」
・・・すぐちかくのお湯屋へ行くのにも、きっと日暮をえらんでまいります。誰にも顔を見られたくないのです。ま夏のじぶんには、それでも、夕闇の中に私のゆかたが白く浮んで、おそろしく目立つような気がして、死ぬるほど当惑いたしました。きのう、きょう、めっき・・・ 太宰治 「燈籠」
出典:青空文庫