・・・が、翌日瀬沼兵衛の逐天した事が知れると共に、始めてその敵が明かになった。甚太夫と平太郎とは、年輩こそかなり違っていたが、背恰好はよく似寄っていた。その上定紋は二人とも、同じ丸に抱き明姜であった。兵衛はまず供の仲間が、雨の夜路を照らしている提・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・が、海の近い事は、疎な芒に流れて来る潮風が明かに語っている。陳はさっきからたった一人、夜と共に強くなった松脂のにおいを嗅ぎながら、こう云う寂しい闇の中に、注意深い歩みを運んでいた。 その内に彼はふと足を止めると、不審そうに行く手を透かし・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・は、お栄の耳にも明かに、茂作の容態の変った事を知らせる力があったのです。が、祖母は依然として、今は枕もとに泣き伏した女中の声も聞えないように、じっと眼をつぶっているのでした。…… 茂作もそれから十分ばかりの内に、とうとう息を引き取りまし・・・ 芥川竜之介 「黒衣聖母」
・・・狂気のような喚呼が夢中になった彼れの耳にも明かに響いて来た。もう一息と彼れは思った。――その時突然桟敷の下で遊んでいた松川場主の子供がよたよたと埒の中へ這入った。それを見た笠井の娘は我れを忘れて駈け込んだ。「危ねえ」――観衆は一度に固唾を飲・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・クララは明かな意識の中にありながら、凡てのものが夢のように見る見る彼女から離れて行くのを感じた。無一物な清浄な世界にクララの魂だけが唯一つ感激に震えて燃えていた。死を宣告される前のような、奇怪な不安と沈静とが交る交る襲って来た。不安が沈静に・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・ 立花は思わず、膝をついて、天井を仰いだが、板か、壁か明かならず、低いか、高いか、定でないが、何となく暗夜の天まで、布一重隔つるものがないように思われたので、やや急心になって引寄せて、袖を見ると、着たままで隠れている、外套の色が仄に鼠。・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・……委しく言えば、昼は影法師に肖ていて、夜は明かなのであった。 さて、店を並べた、山茱萸、山葡萄のごときは、この老鋪には余り資本が掛らな過ぎて、恐らくお銭になるまいと考えたらしい。で、精一杯に売るものは。「何だい、こりゃ!」「美・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・を饒舌って、時々じろじろと下目に見越すのが、田舎漢だと侮るなと言う態度の、それが明かに窓から見透く。郵便局員貴下、御心安かれ、受取人の立田織次も、同国の平民である。 さて、局の石段を下りると、広々とした四辻に立った。「さあ、何処へ行・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・浅草絵は浅草紙に泥絵具で描いたものにしろ、十二枚一と袋一朱ではナンボその頃でも絵具代の足しにもならなかったは明かである。 その頃何処かの洒落者の悪戯であろう、椿岳の潤筆料五厘以上と吹聴した。すると何処からか聞きつけて「伯父さん、絵を描い・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ 過去に於ける文学は多くは片商売であって、今日依然光輝を垂れてる大傑作は大抵米塩の為め書いたものでないのは明かであるが、此の過去の事実を永遠に文人に強いて文学の労力に対しては相当の報賞を与うるを拒み、文人自らが『我は米塩の為め書かず』と・・・ 内田魯庵 「二十五年間の文人の社会的地位の進歩」
出典:青空文庫