・・・それはこの咽喉がかわくような気持から三吉をすくってくれるのであったが、とたんに、三吉はあわてだす。昨夜から考えていること、彼女にむかって、何と最初にいいだせばいいだろう? ――深水から話があって、きょう三吉は彼女と「見合」するのである。・・・ 徳永直 「白い道」
・・・ここで昨夜は誰れが何をした。どんな不潔な忌わしい奴がこの蒲団の上に寝たであろう。私は人がよく後指さして厭がる醜い傴僂や疥癬掻や、その手の真黒な事から足や身体中はさぞかしと推量されるように諸有る汚い人間、または面と向うと蒜や汗の鼻持ちならぬ悪・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・靴は昨夜の雨でとうてい穿けそうにない。構うものかと薩摩下駄を引掛けて全速力で四谷坂町まで馳けつける。門は開いているが玄関はまだ戸閉りがしてある。書生はまだ起きんのかしらと勝手口へ廻る。清と云う下総生れの頬ペタの赤い下女が俎の上で糠味噌から出・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・ 深谷は、昨夜と同じく何事もないように、ベッドに入ると五分もたたないうちに、軽い鼾をかき始めた。「今夜はもう出ないのかしら」と、安岡は失望に似た安堵を感じて、ウトウトした。 と、また、昨夜と同じ人間の体温を頬の辺りに感じた。・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・「おや、善さん。昨夜もお一人。あんまりひどうござんすよ。一度くらいは連れて来て下すッたッていいじゃありませんか。本統にひどいよ」「そういうわけじゃアないんだが、あの人は今こっちにいないもんだから」「虚言ばッかし。ようござんすよ。・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・試みに男子の胸裡にその次第の図面を画き、我が妻女がまさしく我に傚い、我が花柳に耽ると同時に彼らは緑陰に戯れ、昨夜自分は深更家に帰りて面目なかりしが、今夜は妻女何処に行きしや、その場所さえ分明ならずなどの奇談もあるべしと想像したらば、さすがに・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
・・・老爺生長在江辺、不愛交遊只愛銭、と歌い出した。昨夜華光来趁我、臨行奪下一金磚、と歌いきって櫓を放した。それから船頭が、板刀麺が喰いたいか、飩が喰いたいか、などと分らぬことをいうて宋江を嚇す処へ行きかけたが、それはいよいよ写実に遠ざかるから全・・・ 正岡子規 「句合の月」
・・・五月十四日、昨夜父が晩く帰って来て、僕を修学旅行にやると云った。母も嬉しそうだったし祖母もいろいろ向うのことを聞いたことを云った。祖母の云うのはみんな北海道開拓当時のことらしくて熊だのアイヌだの南瓜の飯や玉蜀黍の団子やいまとはよ・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・ 彼等は昨夜、二時過ぎまで起きて騒いでいた。十時過ぎ目をさますと、ふき子は、「岡本さん、おひる、何にしましょう、海老のフライどう?」 話し声が、彼等のいるところまで響いた。「フライ、フライ!」 悌が最も素直に一同の希望を・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・ お上さんの内には昨夜骨牌会があった。息子さんは誰やらと札の引張合いをして勝ったのが愉快だというので、大声に笑った拍子に、顎が両方一度に脱れた。それから大騒ぎになって、近所の医者に見て貰ったが、嵌めてはくれなかった。このままで直らなかっ・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
出典:青空文庫