・・・ただ思うにさえ、胸の時めく里である。 この年の春の末であった。―― 雀を見ても、燕を見ても、手を束ねて、寺に籠ってはいられない。その日の糧の不安さに、はじめはただ町や辻をうろついて廻ったが、落穂のないのは知れているのに、跫音にも、け・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・ 私はドキリとして、おかしく時めくように胸が躍った。九段第一、否、皇国一の見世物小屋へ入った、その過般の時のように。 しかし、細目に開けた、大革鞄の、それも、わずかに口許ばかりで、彼が取出したのは一冊赤表紙の旅行案内。五十三次、木曾・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・冷いが、時めくばかり、優しさが頬に触れる袖の上に、月影のような青地の帯の輝くのを見つつ、心も空に山路を辿った。やがて皆、谷々、峰々に散って蕈を求めた。かよわいその人の、一人、毛氈に端坐して、城の見ゆる町を遥に、開いた丘に、少しのぼせて、羽織・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・ 名古屋に時めく大資産家の婿君で、某学校の教授と、人の知る……すなわち、以前、この蓮池邸の坊ちゃんであった。「見覚えがおありでしょう。」 と斜に向って、お町にいった。「まあ。」 時めく婿は、帽子を手にして、「後刻、お・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・一雫も酔覚の水らしく、ぞくぞくと快く胸が時めく…… が、見透しのどこへも、女の姿は近づかぬ。「馬鹿な、それっきりか。いや、そうだろう。」 と打棄り放す。 大提灯にはたはたと翼の音して、雲は暗いが、紫の棟の蔭、天女も籠る廂から・・・ 泉鏡花 「妖術」
・・・の内容は占領下日本に時めく四十代の「大人」をもてなし、たのしませる好色ものや息子ものとなった。あのころも今も、「大人の文学」は、そのときどきの勢に属して戯作する文学であった。そして、人間は理性あるものであって、ある状況のもとでは清潔な怒りを・・・ 宮本百合子 「「下じき」の問題」
出典:青空文庫