・・・「和田のやつも女の前へ来ると、きっと嬉しそうに御時宜をしている。それがまたこう及び腰に、白い木馬に跨ったまま、ネクタイだけ前へぶらさげてね。――」「嘘をつけ。」 和田もとうとう沈黙を破った。彼はさっきから苦笑をしては、老酒ばかり・・・ 芥川竜之介 「一夕話」
・・・が、彼はその前に立って、ちょいと御時宜をしただけだった。「それでもう好いの?」 母は水を手向けながら、彼の方へ微笑を送った。「うん。」 彼は顔を知らない父に、漠然とした親しみを感じていた。が、この憐な石塔には、何の感情も起ら・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ 相手の河童もお時宜をした後、やはり丁寧に返事をしました。「これはラップさんですか? あなたも相変わらず、――(と言いかけながら、ちょっと言葉をつがなかったのはラップの嘴――ああ、とにかく御丈夫らしいようですね。が、きょうはどうして・・・ 芥川竜之介 「河童」
・・・殊に一度なぞはある家の前に、鶏を追っていた女の児さえ、御時宜をしたではありませんか? わたしは勿論嬉しいと同時に、不思議にも思ったものですから、何か訳のある事かと、そっと御主人に伺って見ました。「成経様や康頼様が、御話しになった所では、・・・ 芥川竜之介 「俊寛」
・・・ 何も知らない番頭は、しきりに御時宜を重ねながら、大喜びで帰りました。 医者は苦い顔をしたまま、その後を見送っていましたが、やがて女房に向いながら、「お前は何と云う莫迦な事を云うのだ? もしその田舎者が何年いても、一向仙術を教え・・・ 芥川竜之介 「仙人」
・・・老人の言葉がまだ終らない内に、彼は大地に額をつけて、何度も鉄冠子に御時宜をしました。「いや、そう御礼などは言って貰うまい。いくらおれの弟子にしたところが、立派な仙人になれるかなれないかは、お前次第で決まることだからな。――が、ともかくも・・・ 芥川竜之介 「杜子春」
・・・彼は若い二人の土工に、取って附けたような御時宜をすると、どんどん線路伝いに走り出した。 良平は少時無我夢中に線路の側を走り続けた。その内に懐の菓子包みが、邪魔になる事に気がついたから、それを路側へ抛り出す次手に、板草履も其処へ脱ぎ捨てて・・・ 芥川竜之介 「トロッコ」
・・・K君はわざわざ外套を脱ぎ、丁寧にお墓へお時宜をした。しかし僕はどう考えても、今更恬然とK君と一しょにお時宜をする勇気は出悪かった。「もう何年になりますかね?」「丁度九年になる訣です。」 僕等はそんな話をしながら、護国寺前の終点へ・・・ 芥川竜之介 「年末の一日」
・・・あいつはこの間もどう云う量見か、馬頭観世音の前にお時宜をしていました」「気味が悪くなるなんて、……もっと強くならなければ駄目ですよ」「兄さんは僕などよりも強いのだけれども、――」 無精髭を伸ばした妻の弟も寝床の上に起き直ったまま・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・のみならずその犬は身震いをすると、忽ち一人の騎士に変り、丁寧にファウストにお時宜をした。―― なぜファウストは悪魔に出会ったか?――それは前に書いた通りである。しかし悪魔に出会ったことはファウストの悲劇の五幕目ではない。或寒さの厳しい夕・・・ 芥川竜之介 「三つのなぜ」
出典:青空文庫