・・・三 往来に雪解けの水蒸気の立つ暖かい日の午後、耕吉、老父、耕太郎、久助爺との四人が、久助爺の村に耕吉には恰好の空家があるというので、揃って家を出かけた。瀬音の高い川沿いの、松並木の断続した馬糞に汚れた雪路を一里ばかりも行った・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・快い猫の重量。温かいその蹠。私の疲れた眼球には、しみじみとした、この世のものでない休息が伝わって来る。 仔猫よ! 後生だから、しばらく踏み外さないでいろよ。お前はすぐ爪を立てるのだから。・・・ 梶井基次郎 「愛撫」
・・・次にふわりとした暖かい空気が冷え切った顔にここちよく触れました。これはさかんにストーブがたいてあるからです。次に婦人席が目につきました。毛は肩にたれて、まっ白な花をさした少女やそのほか、なんとなく気恥ずかしくってよくは見えませんでした、ただ・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・ほかの者たちは、まだ、ぺーチカを焚いている暖かい部屋で、胸をときめかしている時分だった。「ああ、もうこれでやめよう!」彼は、ぐったり雪の上にへたばりそうだった。「あほらしい。」 丘のふもとに、雪に埋れた広い街道がある。雪は橇や靴に踏・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・ちょうど温かい心もちが無いのではありませんが、機転のきかない妻君が、たまたまの御客様に何か薦めたい献りたいと思っても、工合よく思い当るものが無いので、仕方なしに裏庭の圃のジャガイモを塩ゆでにして、そして御菓子にして出しました、といったような・・・ 幸田露伴 「馬琴の小説とその当時の実社会」
・・・とられて、これからどう暮して行くんだ――それだけの事を文句も順序も同じに繰りかえして、進は腕のいゝ旋盤工で、これからどの位出世をするのか分らない大事な一人息子だからと云って、大きな蒲団を運んできたり、暖かい煮物の丼を大事そうに両手にかゝえて・・・ 小林多喜二 「母たち」
・・・最早紅くふくらんだ蕾を垂れていたが、払暁の温かい雨で咲出したのもある。そこはおせんが着物の裾を帯の間に挿んで、派手な模様の長襦袢だけ出して、素足に庭下駄を穿きながら、草むしりなぞを根気にしたところだ。大塚さんは春らしい日の映った庭土の上を歩・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・あのあたりの家はみな暖かい巣のような家であって、明るい人懐かしげな窓の奥からは折々面白げに外を見ている女の首が覗いたり、または清い苦労のなさそうな子供の笑声が洩れるのであった。老人はそういう家を一軒一軒心配げな、物を試すような、熱のある目で・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・初やがね、これはこのごろあんまり暖かいものだから、つい欺されて出てきたんですって」 返した花を藤さんは指先でくるくる廻している。「本当にもう春のようですね、こちらの気候は」「暖いところですのね」 自分はもくもくと日のさした障・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・一生、自分と同じくらい弱いやさしい温かい人たちの中でだけ生活して行ける身分の人は、うらやましい。苦労なんて、苦労せずに一生すませるんだったら、わざわざ求めて苦労する必要なんて無いんだ。そのほうが、いいんだ。 自分の気持を殺して、人につと・・・ 太宰治 「女生徒」
出典:青空文庫