・・・ 本多子爵はどこからか、大きな絹の手巾を出して、つつましく鼻をかみながら、もう暮色を帯び出した陳列室の中を見廻して、静にまた話を続け始めた。「もっともこの問題はいずれにせよ、とにかく珍竹林主人から聞いた話だけは、三浦の身にとって三考・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・が、部屋に拡がった暮色の中には、その三毛猫の二つの眼が、無気味な燐光を放つほかに、何もいるようなけはいは見えなかった。…………… 横浜。 日華洋行の宿直室には、長椅子に寝ころんだ書記の今西が、余り明くない電燈の下に、新刊の雑誌を・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・それは次第に迫って来る暮色の影響に違いなかった。僕は葉巻を銜えたまま、何度もあの愛嬌の好い譚永年の顔を思い出した。が、譚は何の為か、僕の見送りには立たなかった。 江丸の長沙を発したのは確か七時か七時半だった。僕は食事をすませた後、薄暗い・・・ 芥川竜之介 「湖南の扇」
・・・しかし汽車が今将に隧道の口へさしかかろうとしている事は、暮色の中に枯草ばかり明い両側の山腹が、間近く窓側に迫って来たのでも、すぐに合点の行く事であった。にも関らずこの小娘は、わざわざしめてある窓の戸を下そうとする、――その理由が私には呑みこ・・・ 芥川竜之介 「蜜柑」
・・・画工 こうなりゃ凧絵だ、提灯屋だ。そりゃ、しゃくるぞ、水汲むぞ、べっかっこだ。小児等の糸を引いて駈るがままに、ふらふらと舞台を飛廻り、やがて、樹根にどうとなりて、切なき呼吸つく。暮色到る。小児三 凧は切れちゃった。・・・ 泉鏡花 「紅玉」
・・・団々として渦巻く煤烟は、右舷を掠めて、陸の方に頽れつつ、長く水面に横わりて、遠く暮色に雑わりつ。 天は昏こんぼうとして睡り、海は寂寞として声無し。 甲板の上は一時頗る喧擾を極めたりき。乗客は各々生命を気遣いしなり。されども渠等は未だ・・・ 泉鏡花 「取舵」
・・・ひっそりとした暮色がいつもの道に漂うていた。「つまりは友田の言った、よしやろう、これだな」呟きながら固い歩き方でその道行きかけて、しかし佐伯はふと立ち停った。そうだ、あの道をいっぺん通ってやろう、この考えがだしぬけに泛んだのだ。アパートの表・・・ 織田作之助 「道」
・・・星光一点、暮色ようやく到り、林影ようやく遠し」同十八日――「月を蹈んで散歩す、青煙地を這い月光林に砕く」同十九日――「天晴れ、風清く、露冷やかなり。満目黄葉の中緑樹を雑ゆ。小鳥梢に囀ず。一路人影なし。独り歩み黙思口吟し、足にまかせて・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・少年は川上へ堤上を辿って行った。暮色は漸く逼った。肩にした竿、手にした畚、筒袖の裾短かな頬冠り姿の小さな影は、長い土堤の小草の路のあなたに段と小さくなって行くくくぜんたるその様。自分は少時立って見送っていると、彼もまたふと振返ってこちらを見・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・ お島はどうすることも出来ないような調子で言って、夕方の空を眺めながら立っていた。暮色が迫って来た。「鞠ちゃん、吾家へお入り」と彼女はそこいらに出て遊んでいる子供を呼んだ。「オバケ来るから、サ吾家にお出」と井戸の方から水を汲んで・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
出典:青空文庫