・・・死骸はわずか一間と隔てぬ所に在るのだけれど、その一間が時に取っては十里よりも……遠いのではないが、難儀だ。けれども、如何仕様も無い、這って行く外はない。咽喉は熱して焦げるよう。寧そ水を飲まぬ方が手短に片付くとは思いながら、それでも若しやに覊・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・何が在るかわからないところへ、どうして踏み込んでゆくことができよう。勿論われわれは摺足でもして進むほかはないだろう。しかしそれは苦渋や不安や恐怖の感情で一ぱいになった一歩だ。その一歩を敢然と踏み出すためには、われわれは悪魔を呼ばなければなら・・・ 梶井基次郎 「闇の絵巻」
・・・既に在る事実は其為めに消えません。」「けれども其は止を得ないでしょう。」「だから運命です。離婚した処で生の母が父の仇である事実は消ません。離婚した処で妹を妻として愛する僕の愛は変りません。人の力を以て過去の事実を消すことの出来ない限・・・ 国木田独歩 「運命論者」
・・・真に社会に善事を成さんとする志有る者は軽忽に実行運動に加わる前に、しばらく意志を抑制して、倫理学を研究する必要があるのである。何が社会的に善事であるかを知らずして実行することは出来ず、行為の主体が自己である以上は自己と社会との関係を究めない・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・「俺ら、なにも、嘘を話してるんじゃねえんだ。有る通りを云ってるんだ。」 大西は、××にかまわなかった。 本隊を離れてしまった彼等には、×の区別も×の区別もなかった。恐れる必要もなかった。××と雖も、××の前には人間一人としての価・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・今でも其の時分の面影を残して居る私塾が市中を捜したらば少しは有るでしょうが、殆ど先ず今日は絶えたといっても宜敷いのです。私塾と云えばいずれ規模の大きいのは無いのですが、それらの塾は実に小規模のもので、学舎というよりむしろただの家といった方が・・・ 幸田露伴 「学生時代」
一 私は死刑に処せらるべく、今東京監獄の一室に拘禁せられて居る。 嗚呼死刑! 世に在る人々に取っては、是れ程忌わしく恐ろしい言葉はあるまい、いくら新聞では見、物の本では読んで居ても、まさかに自分が此忌わ・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・殿「続いて寒いから雪催しで有るの」七「へえ」殿「何だえ……御覧なさい、あの通りで……これ誰か七兵衞に浪々酌をしてやれ、膳を早く……まア/\これへ……えゝ此の御方は下谷の金田様だ、存じているか、これから御贔屓になってお屋敷へ出んけ・・・ 著:三遊亭円朝 校訂:鈴木行三 「梅若七兵衞」
・・・お前のとこの細君も、まだ達者でいる時分に、この俺に言ったことが有るぞや。『どんなに自分は子供が多勢あっても、自分の子供を人にくれる気には成らない』ッて。それ見よ、女というものはそういうものだぞ。うん、そこだ――そこだ――それだによって、どん・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・下宿と小路ひとつ距て製糸工場が在るのだ。そこの女工さんたちが、作業しながら、唄うのだ。なかにひとつ、際立っていい声が在って、そいつがリイドして唄うのだ。鶏群の一鶴、そんな感じだ。いい声だな、と思う。お礼を言いたいとさえ思った。工場の塀をよじ・・・ 太宰治 「I can speak」
出典:青空文庫