・・・政治家肌がこういう傾向になったのもまた間接に伊井公侯の文明尊重に負うているので、当時の政界の領袖は朝野を通じて皆文芸的理解に富んでいた。庄屋様上りの百姓政治家は帝都の中央では対手にされなかった。 由来革命の鍵はイツデモ門外漢の手に握られ・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・ 一昨年の夏、ロシアより帰国の途中物故した長谷川二葉亭を、朝野こぞって哀悼したころであった。杉村楚人冠は、わたくしにたわむれて、「君も先年アメリカへの往きか返りかに船のなかででも死んだら、えらいもんだったがなァ」といった。彼の言は、戯言・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・ 一昨年の夏、露国より帰航の途中で物故した長谷川二葉亭を、朝野挙って哀悼した所であった、杉村楚人冠は私に戯れて、「君も先年米国への往きか帰りかに船の中ででも死んだら偉いもんだったがなア」と言った。彼れの言は戯言である、左れど実際私として・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・ それ覆載の間、朝野の別を問わず、人皆、各自の天職に心力を労すればまたその労を慰むるの娯楽なかるべからざるは、いかにも本然の理と被存候。而して人間の娯楽にはすこしく風流の趣向、または高尚の工夫なくんば、かの下等動物などの、もの食いて喉を・・・ 太宰治 「不審庵」
・・・成島柳北は三たびこの夜の光景を記述して『朝野新聞』に掲げた。大沼枕山が長命寺の門外に墨水観花の碑を建てたのも思うにまたこの時分であろう。 かつてわたくしはこの時分の俗曲演劇等の事を論評した時明治十年前後の時代を以て江戸文芸再興の期となし・・・ 永井荷風 「向嶋」
・・・其内外の趣意を濫用して、男子の戸外に奔走するは実業経営社会交際の為めのみに非ず、其経営交際を名にして酒を飲み花柳に戯るゝ者こそ多けれ。朝野の貴顕紳士と称する俗輩が、何々の集会宴会と唱えて相会するは、果して実際の議事、真実の交際の為めに必要な・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・者なるものは、何学を学びたる何学士と申すわけにもあらずして、実際にのぞみて知らざる事も多ければ、これにては行くすえ頼母しからずとて、ここにおいてか教育の説起り、新たに学者を作り出ださんことに熱心して、朝野ともに人を教うるに忙わしく、維新以来・・・ 福沢諭吉 「慶応義塾学生諸氏に告ぐ」
・・・ただに兄のみならず、前年の養子が朝野に立身して、花柳の美なる者を得れば、たちまち養家糟糠の細君を厭い、養父母に談じて自身を離縁せよ放逐せよと請求するは、その名は養家より放逐せられたるも、実は養子にして養父母を放逐したるものというべし。「父子・・・ 福沢諭吉 「徳育如何」
・・・東京の新聞やあると求むるに、二日前の朝野新聞と東京公論とありき。ここにも小説は家ごとに読めり。借りてみるに南翠外史の作、涙香小史の翻訳などなり。 二十三日、家のあるじに伴われて、牛の牢という渓間にゆく。げに此流には魚栖まずというもことわ・・・ 森鴎外 「みちの記」
出典:青空文庫