・・・三人の友だちとは、俳人の露柴、洋画家の風中、蒔画師の如丹、――三人とも本名は明さないが、その道では知られた腕っ扱きである。殊に露柴は年かさでもあり、新傾向の俳人としては、夙に名を馳せた男だった。 我々は皆酔っていた。もっとも風中と保吉と・・・ 芥川竜之介 「魚河岸」
・・・ 宇野浩二は本名格二郎である。あの色の浅黒い顔は正に格二郎に違いない。殊に三味線を弾いている宇野は浩さん離れのした格さんである。 次手に顔のことを少し書けば、わたしは宇野の顔を見る度に必ず多少の食慾を感じた。あの顔は頬から耳のあたり・・・ 芥川竜之介 「格さんと食慾」
・・・………「それから一日か二日すると、お蓮――本名は孟もうけいれんは、もうこのK脳病院の患者の一人になっていたんだ。何でも日清戦争中は、威海衛のある妓館とかに、客を取っていた女だそうだが、――何、どんな女だった? 待ち給え。ここに写真がある・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・ 鷺玄庵、シテの出る前に、この話の必要上、一樹――本名、幹次郎さんの、その妻恋坂の時分の事を言わねばならぬ。はじめ、別して酔った時は、幾度も画工さんが話したから、私たちはほとんどその言葉通りといってもいいほど覚えている。が、名を知ら・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・待て、御典医であった、彼のお祖父さんが選んだので、本名は杢之丞だそうである。 ――時に、木の鳥居へ引返そう。 二 ここに、杢若がその怪しげなる蜘蛛の巣を拡げている、この鳥居の向うの隅、以前医師の邸の裏門のあっ・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・ 不了簡な、凡杯も、ここで、本名の銑吉となると、妙に心が更まる。煤の面も洗おうし、土地の模様も聞こうし……で、駅前の旅館へ便った。「姉さん、風呂には及ばないが、顔が洗いたい。手水……何、洗面所を教えておくれ。それから、午飯を頼む。ざ・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・女郎の本名をお千と聞くまで、――この雑仕婦は物頂面して睨んでいた。 不時の回診に驚いて、ある日、その助手たち、その白衣の看護婦たちの、ばらばらと急いで、しかも、静粛に駆寄るのを、徐ろに、左右に辞して、医学博士秦宗吉氏が、「いえ、・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・ と言って行こうとしましたが、ふと坐り直しましたから、小宮山は、はてな、柏屋の姐さん、ここらでその本名を名告るのかと可笑しくもございまする。 すると、女は後先をみまわしましたが、じりじりと寄って参り、「時につかぬ事をお伺い申しま・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・ 菊とは吉弥の本名だ。さすが、当て名は書いてない。「馬鹿野郎! 人の前でのろけを書きゃアがった、な」「のろけじゃアないことよ、御無沙汰しているから、お詫びの手紙だ、わ」「『母より承わり、うれしく』だ――当て名を書け、当て・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・時間から計ると、前夜私の下宿へ来られて帰ると直ぐ認めて投郵したらしいので、文面は記憶していないが、その意味は、私のペン・ネエムは知っていても本名は知らなかったので失礼した、アトで偶っと気がついて取敢えずお詫びに上ったがお留守で残念をした、ド・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
出典:青空文庫