・・・誰かこれを持っていたことがある、――僕はそんなことを思い出しながら、いつか書斎でも何でもない、枳殻垣に沿った道を歩いていた。 道はもう暮れかかっていた。のみならず道に敷いた石炭殻も霧雨か露かに濡れ透っていた。僕はまだ余憤を感じたまま、出・・・ 芥川竜之介 「死後」
・・・とって読んでみても鳶の羽も刷いぬはつしぐれ 一ふき風の木の葉しずまる股引の朝からぬるる川こえて たぬきをおどす篠張の弓のような各場面から始まってうき人を枳殻籬よりくぐらせん 今や別れの刀さ・・・ 寺田寅彦 「映画時代」
・・・江南の橘も江北に植えると枳殻となるという話は古くよりあるが、これは無論の事で、同じ蜜柑の類でも、日本の蜜柑は酸味が多いが、支那の南方の蜜柑は甘味が多いというほどの差がある。気候に関する菓物の特色をひっくるめていうと、熱帯に近い方の菓物は、非・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・ 薄きたない白が、尾を垂れ、歩くにつれて首を揺り乍ら、裏のすきだらけの枸橘の生垣の穴を出入りした姿が今も遠い思い出の奥にかすんで見える。 白、白と呼んでは居たが、深い愛情から飼われたのではなかった。父の洋行留守、夜番がわりにと母が家・・・ 宮本百合子 「犬のはじまり」
・・・疏水の両側の角刈にされた枳殻の厚い垣には、黄色な実が成ってその実をもぎ取る手に棘が刺さった。枳殻のまばらな裾から帆をあげた舟の出入する運河の河口が見えたりした。そしてその方向から朝日が昇って来ては帆を染めると、喇叭のひびきが聞えて来た。私は・・・ 横光利一 「洋灯」
出典:青空文庫